キリストの和解によって(コロサイ1章15〜20節)
先日の女性会集会の分かち合いの中で、和解という言葉についての話が出ました。和解という言葉は一般的にいうならば、「対立し、争っていた者が、仲直りすること」(角川必携国語辞典)という意味です。対等なもの同士、国と国、人と人について使われる言葉がなぜ、神様と人間の間で使われるのか、そういう話でした。私は後でこのことについて、考えてみましたが、これは神様の人間に対する思い、扱いを考えるならば、和解という言葉でよいのではないかと思います。と言いますのは、神様は私たち人間を友と呼んでくださったからです(ヨハネ15章15節)。イエス様は神であるのに、人となってくださったからです(フィリピ2章6〜8節)。イエス様は私たちのもとに来てくださいました。人となって来てくださいました。そして、私たちの罪のすべてを引き受けて十字架にかかり、死なれ、私たちを罪と死から、命へと導いてくださいました。復活されたイエス様は今、私たちと共におられます。共に歩み、共に生きてくださっています。クリスチャンとはどこまでも、イエス様と共に歩み、生きる。その恵みにあずかった者です。この救いの喜びを私たちは伝えていきましょう。
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