親父を超える?(創世記9章18〜29節)
以前、私の友人が「親父を超えていきたい」と言っていたことが今も心に残っています。私の親父、父も亡くなって四年が経ちました。改めて、「親父を超える」ということ、あるいは「親(父や母)を超える」ということを考えさせられています。先月の夕礼拝で創世記9章18〜29節の聖書から御言葉の取り次ぎをさせていただきました。神様と共に歩んだというノア(創世記6章9節)でしたが、ぶどう園を作り、ぶどう酒を飲んで天幕の中で裸で酔っ払っていた、というのです。父の醜態を見た息子たちの対照的な二つの態度が記されていました。一つは父の恥を告発したという息子ハムの態度です。もう一つは他の息子たち、セムとヤフェトの態度です。父の恥を見ないようにして、それを覆った、というのです。これは恥を見ないふりをしたとか、うやむやにしたという意味ではないと思います。「父の裸を覆った」(23節)というのは、父を赦した、ということではないかと思うのです。なぜ、そうできたのか?セムとヤフェトは自分たちが赦されて生きてきたことを知っていたからです。父に愛され、赦されてきた・・・。愛と赦しを受けてきたことを知る人は他者を愛し、赦すことに努めるのです。さて、話は戻ります。「親父超え」、それは親よりも優れた人生を生きるとか、上に立つという意味で一般的には考えられるでしょうが、信仰の視点から言うならば、セムとヤフェトこそ、「親父超え」をした人たちでしょう。父ノアの恥、それは人間的な弱さと言えるものかもしれません。彼らはそういう父を愛し、赦し、受け入れたのです。言い換えるならば、一人の対等な人間として受け入れたということです。私たちの生涯においての課題は愛と赦しに生きるということです。そしてそれは私たち自身が真の親父、つまり、父なる神に愛され、赦された者だからこそ、そのように生きることに導かれているのです。主の十字架を見上げて歩みましょう。
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