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心の貧しい人々は、幸いである(マタイ5章1〜12節)

マタイによる福音書5章から「山上の説教」と言われる箇所です。5章3節の言葉を見てみますと、「心の貧しい人々は、幸いである」とあります。カトリックのフランシスコ会訳聖書では「自分の貧しさを知る人は幸いである」とあります。この訳ですと、自分という人間の貧しさ、欠けとか弱さを知るということがよく言い表されているように思います。そういう人は幸いだ、というのです。なぜなら、そういう人は自分に留まらないはずです。自分ではないだれかに助けを求める、支えを求めるのです。
 もしかすると、私たちは自立して生きる。人に頼らない。自分の力でしっかり生きていく。それが人間として常識的なことであり、美徳であると考えるかもしれません。弱音を吐く。弱さを見せる。それは格好のよくないことと考えるかもしれません。けれども、この心の貧しい、自分の貧しさを知るというのは、自分の力の無さ、弱さ、そういったものに気づき、だれかに頼らなければやっていけない、生きていけない。そういう自分であることに気づいた人のことです。
 私はこのような仕事していますと、それこそ、人の弱さに関わることが多くあります。相談に来られる方がありますと、私は自分の力でその人に何ができるだろうか?できないことだらけであることを思います。人の弱さに関われば関わるほど、自分の弱さ、無力さに気づかされるのです。そういう私ですが、この幸いのメッセージを読みますと、幸いであると語られた後に「天の国はその人たちのものである。・・・その人たちは慰められる。・・・その人たちは地を受け継ぐ。・・・その人たちは満たされる。・・・その人たちは憐れみを受ける。・・・その人たちは神を見る。・・・その人たちは神の子と呼ばれる。・・・天の国はその人たちのものである。・・・」、こういう言葉が続けられています。だれが私を慰めてくれるのでしょうか?だれが私を満たしてくださるのでしょうか?だれが私に憐れみを与えてくださるのでしょうか?それは神様です。神様が私たちに本当の慰めを、憐れみを、満たしを与えてくださるというのです。だから、あなたがたは幸いだ、と主は言われるのです。
このことを知る時に、私は今、苦しみにあるこの方のうえに、悩みや痛みをおぼえているこの方のうえに、神様からの本当の慰めがありますように、憐れみが、満たしがありますように、と祈らされますし、私自身もそのことを求めて祈るのです。

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