心の奥まで変えられて(ヘブライ13章17〜25節)
ヘブライ人への手紙13章18節に「わたしたちは、明らかな良心を持っていると確信しており」とあります。「明らかな良心」とは何でしょうか?別の訳では「正しい良心」(新改訳、聖書協会共同訳)となっていました。岩波訳では「私たちは[自分の]内奥の意識が良い[状態にある]」とありました。内奥という言葉は滅多に聞かないことです。しかし、私たちの信仰を考えるうえで大事な言葉だと思います。内奥、心の奥深く、という意味になるでしょうか?
私たちは自分の信仰についてどのように考えているでしょうか?内奥、心の奥深くまで、イエス様を信じているでしょうか?イエス様が自分の心の奥深くまで、人格を支配しておられるでしょうか?それとも、外側は信仰があるように思えるけれども、内側はどうもそれとは違う、そういうことはないでしょうか?信仰生活というのは、初めはだれもが外側の部分から、あるいは形からと言ってもよいでしょうか。しかし、少しずつ、私たちの内側へ、中の方へと浸透していく、イエス様が私たちの内側へ、中へ入ってくださるのです。大事なことは私たちの方も日々、イエス様に対して、心を開いていく、イエス様に対して素直に、正直になっていくことです。パウロはそのことをこのような言葉で言い表しています。
「わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。」(二コリント3章18節)
ここに「主と同じ姿に造りかえられていきます」とあります。リビングバイブルでは「主に似た者にされていく」となっています。イエス様は神様の愛そのものの方です。そういう方に似た者にされる。素晴らしいことです。あの人は教会に行くようになってから変わったね。前は意地悪だったのに、他人のことを考えるような人ではなかったのに。イエス様を受け入れて信じた人の中に、その変化に気づくようなことがあります。でもそれは自分の努力、頑張りではできないことです。「主の霊の働きによる」とあります。主の霊、聖霊の働きによって、すなわち、イエス様によって変えられて、私たちは主と同じ姿に、主に似た者にされていくのです。私たちは互いにこのことを祈っていきましょう。そして、共に主の愛のうちに生きる者となりますように。
この記事へのコメントはありません。