神のみ心によってキリスト・イエスの使徒とされた(エフェソ1章1〜14節)
パウロはコリントの信徒への手紙一15章でこのように自分のことを記しています。
「 そして最後に、月足らずで生まれたようなわたしにも現れました。わたしは、神の教会を迫害したのですから、使徒たちの中でもいちばん小さな者であり、使徒と呼ばれる値打ちのない者です。神の恵みによって今日のわたしがあるのです。そして、わたしに与えられた神の恵みは無駄にならず、わたしは他のすべての使徒よりずっと多く働きました。しかし、働いたのは、実はわたしではなく、わたしと共にある神の恵みなのです。」(一コリント15章8〜10節)
ここでパウロが言っていることは、復活されたイエス様がご自分の弟子たちに現われてくださったことです。ここにはパウロが自分のことを「そして最後に、月足らずで生まれたようなわたしにも現れました」と記しています。イエス様の弟子たちに、復活されたイエス様は現われてくださった。この私にも現われてくださった。「月足らずで生まれたようなわたし」というのは、未熟児として生まれた、ということで比喩的な表現です。「わたしは、神の教会を迫害したのですから、使徒たちの中でもいちばん小さな者であり、使徒と呼ばれる値打ちのない者です」。
パウロは復活のイエス様に出会う前は、キリストの教会を熱心に迫害していた熱心なユダヤ教徒でした。しかも、それが神様の前に正しいことと考えて、迫害していました。そういうパウロに復活の主が現われてくださり、パウロの目は開かれたのです。パウロの信仰の目が、霊的な目が開かれ、本当のことが分かったのです。私は今まで、キリストの教会を迫害することが神様の前に正しいと考えていた。しかし、それは間違いだった。イエス様に出会って、パウロの生き方は180度変わったのです。
「神の御心によってキリスト・イエスの使徒とされたパウロ」(エフェソ1章1節)。パウロが自分のことをこのように言ったのは、キリストの使徒としてふさわしくない者をふさわしい者としてくださったこと、そのことを神様のみ心によって、ただ神様の恵みによって、そうさせていただいた、という感謝と喜びを言い表しているのです。
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