【巻頭言】 主に出会い、回復した人(マルコ5章1〜20節)
ゲラサの地で、主に出会い、変えられた人、その人の喜ぶ姿がここに記されています。「イエスが舟に乗られると、悪霊に取りつかれていた人が、一緒に行きたいと願った」(18節)。
彼はイエス様と一緒に行きたい、と願ったのです。彼は人生を投げてしまった人でした。その苦しみはだれからも理解されず、その苦しみを表わすために、暴れたり、自虐的になったりしていたのかもしれません。そこに主が来られた。主が彼に関わられた時、彼は変えられたのです。この人の変えられた様子について、「座っていた」(15節)とありました。このことについて、この人はイエス様のもとに座っていた。つまり、この人は主の弟子となり、主の言葉を命の言葉、自分が生きるために必要な言葉として聞き、生きる者となった。そのように語る説教者がいます。主よ、私もあなたの弟子です。あなたと一緒に福音宣教の旅に加わりたい。この人はそのことを望みましたが、主はこのようにお答えになりました。
「イエスはそれを許さないで、こう言われた。「自分の家に帰りなさい。そして身内の人に、主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことをことごとく知らせなさい」」(19節)。
主に仕える、主に従うというのは、自分が望んでいるとおりに仕える、従うというものではありません。自分が望んでいることではなく、主がその人に対して望んでいることに従うのです。主は一緒に行きたい、と願ったこの人に対して、こう言われました。「自分の家に帰りなさい。そして身内の人に、主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことをことごとく知らせなさい」。主がこの人に望んでおられること、それは、あなたは自分の家に帰って、自分の身内に主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことをことごとく知らせるように、ということでした。
あなたが離れてしまった家族、あなたを放り出してしまった家族、そこに行き、主があなたに何をなさってくださったかを語りなさい。その言葉を受けて、彼が行なったことが記されています。
「その人は立ち去り、イエスが自分にしてくださったことをことごとくデカポリス地方に言い広め始めた。人々は皆驚いた」(20節)。
彼は主が自分にしてくださったことをことごとく彼の住む地方に言い広めた、というのです。彼は、以前は死に向かって生きていた人でした。それが主に出会って、自分は愛されている、生かされている、そのことを知り、生きる喜びを語る者に変えられました。主に出会うと、人は変えられる。本当に生きる者とされるのです。
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