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土の器として生きる(二コリント4章1〜15節)

使徒パウロは私たち人間のことを「土の器」と言いました。土の器、それはもろく、壊れやすいものです。私たちの体も、心も、もろく、壊れやすいものです。しかし、その中に宝がある。イエス・キリストという宝があるのです。土の器である私たち、イエスは主であると信じる私たちの生き方について、この箇所(二コリント4章10〜12節)は示します。この箇所に「死」という言葉が繰り返されています。実は土の器である私たち、イエスを主と信じる者の人生というのは、死ぬということなのです。主イエスのために死ぬ。イエス様は御自分の弟子たちにある時、このようなことを言われました。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る」(マタイ16章24、25節)。主イエスのために死ぬ。それはこのイエス様の言葉で言うならば、「自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」ということです。主イエスのために死ぬとは、自分に死ぬということ。そして、主の十字架を負う、主に従うということなのです。そして、「わたしのために命を失う者は、それを得る」。主のために自分をささげる者は命を得る。ここで言う命とは、永遠の命のことです。主イエスのために死ぬ時、私たちは本当に生きる。永遠の命に、イエスの命に生きる者とされるのです。

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