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2020年8月16日 主日礼拝(朝・夕拝)説教 「福音の使者」

2020年 8月16日(朝・夕)礼拝説教「福音の使者」エフェソの信徒への手紙6章10~24節

聖書―エフェソの信徒への手紙6章10~24節
(はじめに)
8月のこの時期はお盆の季節です。東京はいつもの年ならば、故郷に帰省される方がありますので、都内は比較的空いていますが、今年は新型コロナ感染の影響もあり、自宅に留まる方が多いようです。また、教会では例年、この時期の日曜日の礼拝を「召天者記念礼拝」として行ってきました。先に信仰を持って天国、神さまの御国に召された人たちを記念して行う礼拝ですが、今年はこれも新型コロナ感染のことがあり、礼拝に多くの方々をお招きすることができないため、中止にしました。しかし、私たちは、8月の召天者記念礼拝だけでなく、毎週行われている礼拝が、先に天国に召された方々が参加されている天上の礼拝と合同で行われている礼拝と理解したいと思うのです。一つの聖書の言葉をお読みします。ヘブライ人への手紙12章1、2節です。
12:1 こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか、12:2 信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。
「おびただしい証人の群れ」。この箇所では旧約聖書に出て来る信仰者たちのことを指していますが、私たちにとっては、一緒に教会の歩みをしてきて、今は天に召された兄弟姉妹のことと理解したいと思うのです。その人たちのことを聖書は、証人、キリストの証人と言っているのです。天上におられるキリストの証人とされた方々、そして、地上にいる私たちが今日も一緒に礼拝を行っていることをおぼえたいと思うのです。

(聖書から)
今日の礼拝でお読みしました聖書の箇所はエフェソの信徒への手紙6章10節以下です。10節に「最後に言う」とありますが、この手紙の最後の部分になります。10節をお読みします。
6:10 最後に言う。主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。
「強くなりなさい」とあります。これは「強められなさい」(新改訳)とも訳されます。強くなる。私たちは強くなりたいです。人生の試練にぶつかると、いかに自分が弱いか気づかされます。もっと強くならなければいけない。試練の度にそう思わされますが、特に私たちにとって求めたい強さというのは耐える力、忍耐力だと思います。
お読みしました聖書から知ることは「主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい」ということです。つまり、神さまに依り頼むことによって、神さまの偉大な力によって、神さまが与えてくださる強さということです。キリスト教信仰の出発点というのは何かと言いますと、自分の罪を知ること、自分の弱さを知ることです。これは神さまという方に出会って、神さまという方を知ると、知らされていきます。そして、神さまに自分の人生を依り頼んでいく時、神さまは私たちを罪から解放してくださる、生きる力を与えてくださいます。これが、神さまが私たちに与えてくださる強さです。
次の11節をお読みします。
6:11 悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。
これはこの手紙を書いたパウロがローマの兵士をイメージして語ったものだと言われています。神さまの武具を身に着けるように、ということです。そして、戦うべきは悪魔の策略だというのです。戦うべき相手は悪魔の策略、悪魔と聞いても、初めて聞くと、何のことだか理解できないかもしれません。これは12節を読むと分かってきます。
6:12 わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。
私たちは何と戦っているでしょうか?身近な誰かと戦っているかもしれません。自分の敵というと、あの人、この人のことが思い浮かぶかもしれません。しかし、ここには、「わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではな」い、とあります。血肉とは、人間のことです。つまり、私たちにとって、人間は戦う相手ではないのです。それなのに、私たちはいつも誰かを敵に定めて、戦っているのではないでしょうか?聖書は、人間は戦う相手ではない、とはっきりと語っているのです。
では何を戦う相手、敵とするかというと、「支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするもの」、それが私たちの戦う相手、敵だというのです。これは11節にもありましたが、悪魔のことです。私たちは悪魔との戦いをするのだ、というのです。悪魔というと、映画やアニメなどで、いろいろなイメージで表されていますが、聖書が示す悪魔とはどういうものでしょうか?新共同訳聖書の付録に「用語解説」というものがあります。そこには「悪魔」という項目があって、「『中傷する者』という意味で、人間を誘惑して神に反逆させる者」とあります。悪魔は中傷する者、そして、人間を誘惑して神さまに反逆させる者だというのです。
それでは神さまという方はどのような方でしょう。聖書から知らされることは、神さまは愛の方です。私たちを罪から救い出し、新しく生きるように導かれる方、互いに愛し合い、赦し合うことを私たちに望んでおられる方です。一方、悪魔というのはそれと反対と考えたらよいでしょう。神さまの望んでおられることとは反対のことを望んでいる。愛し合い、赦し合うことをさせない。憎しみ合い、裁き合うことを望んでいる。それが悪魔です。悪魔に対抗するためにはどうしたらよいかというと、神さまの武具を身に着けなさい、というのです。これについて、13~17節をお読みします。
6:13 だから、邪悪な日によく抵抗し、すべてを成し遂げて、しっかりと立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。6:14 立って、真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着け、6:15 平和の福音を告げる準備を履物としなさい。6:16 なおその上に、信仰を盾として取りなさい。それによって、悪い者の放つ火の矢をことごとく消すことができるのです。6:17 また、救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。
神さまの武具、それは真理、正義、平和の福音、信仰、救い、神さまの言葉です。私たちがこれらのものを身に着けるように、というのです。ここに真理とか、平和ということが出て来ました。皆さんはいかがでしょうか。私は神さまの側に立っていて、いつも愛とか平和、真理を求めて生きています!そのように言うことができるでしょうか?また、私たちの生きているこの世界、世の中はどうでしょうか?そのようなことを思い巡らしてみる、自問自答してみるということは大切なことです。一つの聖書の箇所を読んでみましょう。この箇所からは、私たちの日々の生き方を問いかけるような言葉が語られています。ヤコブの手紙4章1~4節です。
4:1 何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いが起こるのですか。あなたがた自身の内部で争い合う欲望が、その原因ではありませんか。4:2 あなたがたは、欲しても得られず、人を殺します。また、熱望しても手に入れることができず、争ったり戦ったりします。得られないのは、願い求めないからで、4:3 願い求めても、与えられないのは、自分の楽しみのために使おうと、間違った動機で願い求めるからです。4:4 神に背いた者たち、世の友となることが、神の敵となることだとは知らないのか。世の友になりたいと願う人はだれでも、神の敵になるのです。
私たちの現実は戦いや争いがあります。世界の情勢を見ると、各地で戦い、争いが絶えません。その原因は何かというと、「あなたがた自身の内部で争い合う欲望が、その原因ではありませんか」とあります。ここで言われている自分の欲望とか、自分の楽しみというのは、自分さえよければよい、という自己中心、エゴイズムのことです。どこかの国の指導者は、自分の国の名前の後に「ファースト」、「〇〇〇〇・ファースト」と言いました。自分の国さえよければよい。そういう考えこそは戦いや争いの原因なのです。自分の欲望だけを求める生き方、自分さえよければよい、それこそは神さまに背くこと、世の友、神さまの敵ということなのです。同じヤコブの手紙4章7、8節にはこのようなことが書かれています。
4:7 だから、神に服従し、悪魔に反抗しなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げて行きます。4:8 神に近づきなさい。そうすれば、神は近づいてくださいます。
私たちが今日の聖書の言葉を読むとき、私自身の心、考え、生き方は神さまの求めておられることと同じだろうか、それとも自分の欲望ばかりが優先されているのではないだろうか、と自分の心の中を点検し、吟味することは大事なことです。神さまの武具を身に着けなさい。そのことが、このヤコブの手紙では、神さまに服従しなさい、神さまに近づきなさい、と言われています。私たちも神さまに従う者、神さまのみ心を深く知る者でありたいと思います。

(むすび)
18節以下には祈りについて言われていました。
6:18 どのような時にも、“霊”に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。6:19 また、わたしが適切な言葉を用いて話し、福音の神秘を大胆に示すことができるように、わたしのためにも祈ってください。6:20 わたしはこの福音の使者として鎖につながれていますが、それでも、語るべきことは大胆に話せるように、祈ってください。
「福音の神秘」というのは、神さまの救いのご計画のことです。そして、自分が「福音の使者」として、神さまの救いを語ることができるように、祈ってほしい、というパウロの祈りのリクエストが書かれています。この時、パウロは鎖につながれていた、と言っています。福音を伝えること、正しいこと、真実を語ることによって、鎖につながれるということは、いつの時代にも起こってきます。しかし、福音はつながれていません(二テモテ2章9節参照)。福音は人間を罪から解放します。自分の欲望を求める生き方から、互いに愛し合う生き方へと導きます。私たちも福音の使者として、言葉において、生き方において、福音を表していきましょう。

祈り
主なる神さま、
今日も私たちは教会に集まり、あなたに礼拝をささげています。毎年、この時期は召天者記念礼拝として、先に天に召された兄弟姉妹を記念しての礼拝を行ってきましたが、今年は新型コロナ感染のことがあり、特別の礼拝は中止しました。しかし、神さまは天に召された兄弟姉妹を永遠におぼえて、共におられます。今日も私たちは天上の兄弟姉妹と共に礼拝を行うことができましたことを感謝します。
エフェソの信徒への手紙からみ言葉を分かち合いました。神さまに反逆するもの、愛と赦しを否定するもの、悪魔との戦いが語られていました。私たちもかつてはその支配下にありましたが、十字架の救いによって神さまのものとして生きる者とされましたことを感謝します。私たち自身は弱い者ですが、「どのような時にも、“霊”に助けられて祈り、願い求め」(18節)、神さまのみ心に従い、歩ませてください。そして、主の勝利にあずからせてください。
私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン

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