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2020年9月6日 主日礼拝(朝・夕拝)説教 「まだ悟らないのか」


聖書―マルコによる福音書8章1~21節
(はじめに)
 今日の礼拝の説教題は「まだ悟らないのか」と付けました。これは今日お読みしました聖書の箇所の最後に記されていたイエスさまの言葉から付けました。「まだ悟らないのか」。聖書の言葉を学ぶために例えば、聖書注解、あるいは聖書辞典といったものがあります。牧師は説教の準備の時にこれらのものを読んで、聖書の時代背景とか、言葉の意味を調べます。けれども、調べたからといって、それで説教ができるわけではありません。毎週の礼拝の準備をする度に、イエスさまから、「まだ悟らないのか」と言われているような思いがします。聖書、神さまの言葉は聖書注解や聖書辞典などを調べても、それで理解できるものではありません。神さまがこの私に何を語っておられるのだろうと、神さまに対して、心の目を、心の耳を開いて求めていくとき、神さまの言葉が理解できるようにしてくださると私は信じています。

(聖書から)
 今日お読みしました聖書の箇所はマルコによる福音書8章1~21節です。1~10節の箇所について、新共同訳聖書では「四千人に食べ物を与える」という小見出しが付いています。この聖書の箇所の内容は同じマルコによる福音書6章30~44節の箇所とよく似ています。6章の方では「五千人に食べ物を与える」となっていました。イエスさまの話を聞きに来た群衆の数が少し違いますが、内容はほとんど同じです。大勢の群衆がイエスさまの話を聞きに来ましたが、もう随分時間が経ってしまい、食べる物がない。彼らに食べ物を食べさせたいとイエスさまの方から弟子たちに相談しています。2、3節にこのように記されています。
8:2 「群衆がかわいそうだ。もう三日もわたしと一緒にいるのに、食べ物がない。8:3 空腹のまま家に帰らせると、途中で疲れきってしまうだろう。中には遠くから来ている者もいる。」
イエスさまは「群衆がかわいそうだ」と言われました。「この群衆に対して、私は腸(はらわた)のちぎれる想いがする」(岩波訳)と訳している聖書もあります。断腸の思いということです。彼らを空腹のまま家に帰らせたくはない。遠くから来ている者もいるだろうし。何気なく読むと、読み飛ばしてしまうような言葉かもしれませんが、イエスさまという方は大勢の群衆の一人一人のことを心配しておられる。そういう方であることが分かります。そして、私たち一人一人のことも同じように心にかけておられる方なのです。
弟子たちはこのイエスさまの言葉を聞いて、率直に答えています。「人里離れたこのようなところで、食べる物を用意することができるでしょうか?」すると、イエスさまは弟子たちに「あなたがたはパンを幾つ持っていますか?」とお尋ねになりました。弟子たちの手元にあるのは七つのパンでした。イエスさまはそのパンと小さな魚があったということでそれを持って感謝の祈りを唱えてパンを、また賛美の祈りを唱えて魚を弟子たちの手で群衆に配らせた、ということです。人々は食べて満腹したということです。
先ほどもお話ししましたが、この聖書の箇所に記されている内容は6章の五千人の群衆に食べ物を与えた内容とほとんど同じです。群衆の人数は違いますが、もう一つ違うことがあります。6章では群衆というのは、ユダヤの人たちのことでした。ユダヤの人たちは自分たちが神さまの民とされている。神さまに選ばれた人たち。そういう自負がありました。この出来事についても、これは私たちが神さまに選ばれている、特別な民だから与えられた恵みなのだ。そのように考えたかもしれません。
一方、今日の箇所ですが、これは7章からの流れから見て、ユダヤ人ではない人たち、ユダヤ人からすると、神さまから遠く離れた人たち、異邦人、そういう人たちに行われた奇跡と言われます。つまり、イエスさまがなさった奇跡、大勢の群衆に食べ物を与えた、という出来事はユダヤ人だけでなく、異邦人にも起きた、ということです。聖書が示す神さまという方は人種や民族を超えて、すべての人に恵みを与えてくださる方なのです。
このマルコによる福音書の最後の16章には「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」(16章15節)とあります。神さまによって造られたすべての人に福音を宣べ伝えなさい、ということです。それはすべての人、誰もが福音、神さまの救いにあずかるように、ということです。そのことをおぼえて、私たちは福音を宣べ伝えていきましょう。
11~13節はファリサイ派の人たちとイエスさまのしるしについての論争が記されています。
8:11 ファリサイ派の人々が来て、イエスを試そうとして、天からのしるしを求め、議論をしかけた。8:12 イエスは、心の中で深く嘆いて言われた。「どうして、今の時代の者たちはしるしを欲しがるのだろう。はっきり言っておく。今の時代の者たちには、決してしるしは与えられない。」8:13 そして、彼らをそのままにして、また舟に乗って向こう岸へ行かれた。
 ファリサイ派の人たちがイエスさまを試そうとして、天からのしるしについて議論を仕掛けた、ということです。天からのしるしというのは、神さまのなさる奇跡です。ファリサイ派の人たちはイエスさまが神さまの御子であることを認めていませんでした。そういう彼らはイエスさまに対して、あなたは自分が神の子であることを私たちに納得させるようなしるしを行って見せてみなさい、と言ったのです。
 私は自分の友人にイエスさまのことを伝えようと話をしていたとき、その友人からこう言われました。「君が信じている神さまというのは、僕の願っていることをすべて叶えてくれる神さまなのか?そういう神さまなら信じてやろう」。私はこの質問を受けて、神さまという方は自分が願っていることをすべて叶えてくださるそういう神さまなのだろうか?叶えてくださることもあるし、そうでないこともある。そういうことを心の中で思っていて、友人に何も答えることができませんでした。
 イエスさまはファリサイ派の人たちの質問に何とお答えになったでしょうか?12節には、イエスさまが深く嘆かれた、とあります。そして、「どうして、今の時代の者たちはしるしを欲しがるのだろう。はっきり言っておく。今の時代の者たちには、決してしるしは与えられない」とお答えになりました。言われていることは、あなたがたが望んでいるようなしるしは与えられない、ということです。
 ファリサイ派の人たちはイエスさまを試みた、とありました。言い換えるなら、ファリサイ派の人たちが先生か、試験官のような者になって、イエスさまをテストしているという様子です。私たちの要望に応えられたら、あなたを神さまの遣わされた救い主と認めよう、と言っているのです。しかし、聖書が示す神さま、そして、信仰というのはそれとは違います。私たちが神さまに従うのです。信仰とは、私たちが聖書が示す神さまのみ心を知り、従っていく生き方です。そして、従っていく時、神さまが私たちに本当に必要なものを備えてくださるのです。
 この論争の後、イエスさまはご自分の弟子たちに「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種によく気をつけなさい」(15節)と言われました。パン種、イースト菌は小さいものですが、それが大きく膨らみます。どんな小さな罪でも、悪でも注意しなさいということです。それがやがては大きくなり、人の心を支配するようなことがある。だから、気をつけていなさい、というのです。そして、イエスさまは弟子たちにこのようにも言われました。
8:17 イエスはそれに気づいて言われた。「なぜ、パンを持っていないことで議論するのか。まだ、分からないのか。悟らないのか。心がかたくなになっているのか。8:18 目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか。覚えていないのか。8:19 わたしが五千人に五つのパンを裂いたとき、集めたパンの屑でいっぱいになった籠は、幾つあったか。」弟子たちは、「十二です」と言った。8:20 「七つのパンを四千人に裂いたときには、集めたパンの屑でいっぱいになった籠は、幾つあったか。」「七つです」と言うと、8:21 イエスは、「まだ悟らないのか」と言われた。
 弟子たちは自分たちがパンを持って来るのを忘れたということです。イエスさまはパンを忘れたことで嘆いている彼らに向かって、パン種の話をされました。これはイエスさまがパンを持って来なかったことをお叱りになったという話ではありません。パンのことを通して言われたこと、その一つは、悪いパン種に気をつけるように、ということです。ファリサイ派のパン種、それはイエスさまを試したように、神さまが遣わされた救い主を受け入れない。神様を信じていると言いながら、自分が神のようになっているあり方です。ヘロデのパン種、それはこの世がすべてというあり方です。そのような人たちに気をつけなさい。自分もそうならないように気をつけなさい、ということです。
そして、もう一つのこと、それはイエスさまのなさった二つの奇跡、五千人に食べ物を与えた出来事、四千人に食べ物を与えた出来事についてお話しされたのです。弟子たちは主が五千人、また四千人にパンを与えられた出来事を実際にその目で見て、耳で聞いて、体験したはずです。ところが弟子たちはそのことをなさった方、恵みを与えてくださる方のことをすっかり忘れて、自分たちは大変だ、無力だ、と嘆いていたのです。だから、主は言われるのです。「まだ、分からないのか。悟らないのか。心がかたくなになっているのか。目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか。覚えていないのか」(17、18節)。
 あなたがたは主の恵みを思い起こしなさい。パンが五つ、魚が二匹しかなくても、主が五千人を満たしてくださった。パンが七つ、小さな魚が少ししかなくても、主が四千人を満たしてくださった。主は弟子たちに主のなさった恵みのみわざを思い起こすように語られたのです。

(むすび)
今日の話の最初にイエスさまの群衆に対する思いが語られている言葉を読みました。「群衆がかわいそうだ。もう三日もわたしと一緒にいるのに、食べ物がない。空腹のまま家に帰らせると、途中で疲れきってしまうだろう。中には遠くから来ている者もいる」。私はこの言葉を読み、これは私に語られていることであり、私たちの教会にも語られていることだと思いました。「人々を空腹のまま帰らせてはいけない」。けれども、私が語る毎週の説教はどうだろうか?自分の働きはどうだろうか?一人一人の心を満たすものとなっているだろうか?私たちの教会は人々の心を満たすように、福音宣教に励んでいるだろうか?自分の働き、自分の能力、そういったことだけで考えますと、先ほどの弟子たちのようにパンはない、と嘆くだけに終わってしまいます。しかし、本当に人々の心を満たしてくださるのはイエスさまです。そうであるならば、まず、私たち自身がイエスさまに満たしていただくところから始めたいと思うのです。まず、私たちが主のもとへ行き、主の恵みを受け取りましょう。

祈り
恵み深い主なる神さま
今日も私たちはあなたを礼拝するために教会に集まりました。
イエスさまは五千人の人々のために、また四千人の人々のために、その必要を満たしてくださいました。弟子たちはその出来事をその目で見、その耳で聞いたのに、日々の生活の中でそのことをすっかり忘れてしまいました。
私たちも忘れるようなことがありませんように、日々、主のもとに行き、主の言葉を聴き、主に祈り、主の恵みを覚えて歩む者とさせてください。
私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン

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