2020年9月20日 主日礼拝(朝・夕拝)説教 「生きるとはキリスト」
聖書―フィリピの信徒への手紙1章12~26節
(はじめに)
今日も皆さんと共に神さまを礼拝することができますことを心から感謝します。ただいま私たちの教会は日曜日に午前10時、11時、そして、午後4時の礼拝を行っています。また水曜日には午後7時から祈祷会、これはオンラインでも参加できるようにしています。他にも集会、活動を再開したいと思うのですが、現状はなかなか難しいです。しかし、私たちは失望しないで、主に祈り、主の導きを待ち望んでまいりましょう。
(聖書から)
「福音の前進」(12節)。このような言葉から今日の聖書は始まります。12節をお読みします。
1:12 兄弟たち、わたしの身に起こったことが、かえって福音の前進に役立ったと知ってほしい。
このフィリピの信徒への手紙はパウロがフィリピの教会に書き送った手紙であると言われます。そのパウロの身に起こったことが、かえって福音の前進に役立った、と言っているのです。パウロの身に起こったこと、それは何でしょう。13節に「わたしが監禁されているのは」とあります。14節には「わたしの捕らわれているのを」とあります。パウロの身に起こったこと、それはパウロがキリストを宣べ伝えることによって、監禁された、捕らわれた、ということです。
福音宣教に励んでいたパウロでした。伝道者としてめざましい働きをしていました。そのパウロが監禁された、捕らわれてしまった・・・。パウロはこのことで福音が前進どころか後退してしまうのではないか、と思ったかもしれません。パウロと同じ福音宣教に励んでいる人たちもパウロの様子を聞いて、福音はどうなってしまうのか、と思ったかもしれません。
ところが、パウロはこの手紙でこのように語っています。「わたしの身に起こったことが、かえって福音の前進に役立ったと知ってほしい」。福音は後退することはありませんでした。福音は前進した。つまり、イエス・キリストの福音はパウロが囚われの身にあっても、変わることなく、人々に宣べ伝えられていったのです。そのことが13、14節に記されています。
1:13 つまり、わたしが監禁されているのはキリストのためであると、兵営全体、その他のすべての人々に知れ渡り、1:14 主に結ばれた兄弟たちの中で多くの者が、わたしの捕らわれているのを見て確信を得、恐れることなくますます勇敢に、御言葉を語るようになったのです。
私はこのパウロの言葉を読み、私たちの教会の今の状況を考えました。私たちの教会、新型コロナ感染拡大が収まらず、3月末から5月まで、会堂にみんなで集まって行う礼拝はお休みしました。ちょうどその時期は緊急事態宣言が出た頃でした。この時期は教会の集会、活動、いっさいできませんでしたが、毎週日曜日は私たち夫婦、そして、教会の執事と5、6名で小さな礼拝を続けていました。説教は音声を録音したものを教会のホームページから聴くことができるようにしました。
まさにこの時期は新型コロナによって、私たちは監禁されているような、囚われの身にあるような状態でしたが、その中で教会としての礼拝は続けてきました。そして、今もなお、新型コロナのことで注意を続けなければならない、いろいろと制約のある状況ですが、礼拝をインターネットで配信したり、祈祷会をzoomで行っています。私は今まで、インターネットというと、あると便利、使ってみると便利、その程度でしか考えていませんでしたが、このような形で人と人が顔を合わせることができる。人と人がつながり続けることができる。福音は後退することはない。福音は前進する!そのことを強く思わされました。
さて、パウロは福音が前進する喜びを語っていましたが、それに続いて記していることは、福音を宣べ伝える者自身の問題です。
1:15 キリストを宣べ伝えるのに、ねたみと争いの念にかられてする者もいれば、善意でする者もいます。1:16 一方は、わたしが福音を弁明するために捕らわれているのを知って、愛の動機からそうするのですが、1:17 他方は、自分の利益を求めて、獄中のわたしをいっそう苦しめようという不純な動機からキリストを告げ知らせているのです。
キリストを宣べ伝える。それは素晴らしいことです。しかし、その動機は何かということが言われています。妬みや争いの念に駆られて、つまり、不純な動機からキリストを宣べ伝える人たちがいるのです。もちろん、善意、愛の動機からキリストを宣べ伝える人たちもいるのですが。これを読んで、私は自分はどちらだろうか?と考えました。私は善意から、愛の動機から、と胸を張って言うことができるだろうか?皆さんはいかがでしょうか。動機の部分というのは、私たちの心の中のことですから、お互いがどういう動機で福音宣教に励んでいるか、分かりません。自分自身が神さまの前に問われることだと思います。
ヘンリー・ナーウェンというカトリックの神父がいました。この方は長く大学の神学部の教授をしておられましたが、その職を辞し、ラルシュ共同体という知能障害者の施設の司祭として働かれました。このナーウェンの著書の一つである『イエスの御名で』には聖書的リーダーシップとは何かということが記されています。目次の部分を紹介しますと、「能力を示すことから祈りへ」、これは自分の力を誇示することです。そうではなくて人のために祈り、愛することへ。「人気を求めることから仕えることへ」、これは人の歓心を買うことを求めることです。そうではなくて、人に仕えることへ。そして、「導くことから導かれることへ」、これは人を自分に従わせることです。そうではなくて、自分が神さまに従うことへ。内容はサーバントリーダー、仕える指導者と言ったらよいでしょうか。イエスさまは弟子たちに互いに仕え合うことを教えられましたが、聖書が示すリーダー、指導者のことです。私はこの本から、心を探られ、牧師として、福音宣教者としてあるべき姿を教えられました。その視点から考えますと、パウロが記した妬みや争いの念や不純な動機ということが私の心の中にもあると思います。しかし、今日の箇所の18、19節にはこのようなことが続いて記されています。
1:18 だが、それがなんであろう。口実であれ、真実であれ、とにかく、キリストが告げ知らされているのですから、わたしはそれを喜んでいます。これからも喜びます。1:19 というのは、あなたがたの祈りと、イエス・キリストの霊の助けとによって、このことがわたしの救いになると知っているからです。
パウロは福音宣教を愛の動機でする者、不純な動機でする者がいることを示しました。そして、そのことで心を痛めていたわけですが、このようなことを言っているのです。「だが、それがなんであろう。口実であれ、真実であれ、とにかく、キリストが告げ知らされているのですから、わたしはそれを喜んでいます。これからも喜びます」。
パウロが言っていることは何かというと、一つはどんな動機であれ、イエス・キリストが告げ知らされているのなら、それでよいというのです。パウロは自分の生きる目的はイエス・キリスト、イエス・キリストを宣べ伝えることでしたから、イエスさまが宣べ伝えられているのなら、私は喜ぶ、というのです。もう一つのことですが、それはイエスさまという方は、どんな人もご自分のために用いられるというのです。私たちはたとえ自分の欠点とか、弱さとか、失敗に気づかされ、そういう自分に失望したとしても、イエスさまは私たちをそれでも変わることなく、ご自分の働きのために用いられるのです。私たちはイエスさまを感謝したいと思います。イエスさまを喜びたいと思います。そして、私たちを用いてくださるイエスさまの愛と赦しを受け止めて、その恵みに応えて歩んでいきたいと思います。
20節以下、そこには生きること、死ぬことについての言葉が語られています。21、22節をお読みします。
1:21 わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。1:22 けれども、肉において生き続ければ、実り多い働きができ、どちらを選ぶべきか、わたしには分かりません。
「生きるとはキリスト」。今日の聖書の箇所の小見出しには「わたしにとって、生きるとはキリストを生きること」とありました。パウロは囚われの身にありました。福音宣教の働きに励んできましたが、心身共に疲れを覚えることもあったと思います。このまま生き続けて、福音宣教に励んでいくか。この世を去って、永遠にイエスさまと一緒にいるか。生きるか死ぬか、どちらにしても、私にとっては、恵みであるけれども・・・と考えていたようです。22節に「どちらを選ぶべきか、わたしには分かりません」とありました。どちらを選んだらよいか分からない、というと、何か迷っているように思えますが、そういう意味でパウロは言っているのではないのです。本当に私には分からない、と言っているのです。この先、私は生き続けることができるのか、死んでしまうのか分からない。それは自分が決めることではない・・・。これは私たちも同じですね。自分の身がどうなるのか、先のこと、明日のことは私たちには分かりません。私はそういうことを考えながら、一つの賛美歌を思い出しました。その歌詞を紹介します。
1 明日はどんな日か 私は知らない
晴れか、嵐か、曇りになるか
私は明日を心配しない イェスが私をまもられるから
明日は私にはわからないけど
明日を守られるイェスがおられる
2 明日はどんな日か 私は知らない
どんな道筋が 先にあるかも
だけど私は心配しない イェスがおられる私とともに
明日は私にはわからないけど
明日を守られるイェスがおられる
(むすび)
明日を守られるイエスさま。私たちには明日のこと、先のことは分かりませんが、明日のこと、先のこと、すべてをご存じの神さまに自分をお任せしていきましょう。神さまが最善をなさることを信じて歩みましょう。
祈り
恵み深い主なる神さま
神さまは私たちのために大切な独り子であるイエス・キリストをお与えくださいました。イエスさまは私たちと一緒に歩んでくださいます。
パウロはそのことをこのように記しました。「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです」(ガラテヤ2章20節)。イエスさまが私のうちに生きておられることを感謝します。
「わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益」(フィリピ1章21節)、「どちらを選ぶべきか、わたしには分かりません」(同22節)とパウロが言ったように、私たちも明日のことは分かりません。けれども、イエスさまは私たちの明日を守られる、私たちのこれからの歩みを守られる。そのことを信じて歩ませてください。
私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン
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