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2020年11月8日 主日礼拝(朝・夕拝)説教 「信仰のない私をお助けください」


聖書―マルコによる福音書9章14~29節
(はじめに)
私たちの教会では、一人の姉妹がイエスさまを信じて、先々週は信仰告白、先週はバプテスマ式を行いました。一人の人がイエスさまを救い主と信じて、新しい人生を歩まれることは大変嬉しいことです。私はこのことを通して、改めて一つの聖書の言葉を読み、神さまの恵みを想いました。エフェソの信徒への手紙2章8、9節の言葉です。
2:8 事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。2:9 行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。
イエスさまを信じる、ということがここに書いてあります。それは自分の力によるのではない、とあります。恵みにより、信仰によって救われる、とあります。また、「神の賜物」とありました。救いは神さまからの賜物、贈り物です。信仰とは、神さまからの救いを受け取ることです。これからも救いを、イエスさまという救いを受け取る方がありますように祈っていきましょう。

(聖書から)
今日お読みしました聖書の箇所はマルコによる福音書9章14節からです。イエスさまの弟子たちが大勢の群衆に取り囲まれていて、律法学者たちと議論をしているという場面から始まっています(14節)。なぜ、弟子たちがこのようなことになっているかというと、イエスさまがその様子をご覧になって、何を議論しているのか?とお尋ねになったことで分かってきます(16節)。イエスさまが尋ねられたことに対して、ある人がこう答えています。
9:17 群衆の中のある者が答えた。「先生、息子をおそばに連れて参りました。この子は霊に取りつかれて、ものが言えません。9:18 霊がこの子に取りつくと、所かまわず地面に引き倒すのです。すると、この子は口から泡を出し、歯ぎしりして体をこわばらせてしまいます。この霊を追い出してくださるようにお弟子たちに申しましたが、できませんでした。」
この人は自分の息子が霊に取りつかれて、ものが言えない、ということです。そして、霊がこの子を所構わず、地面に引き倒し、この子は口から泡を出し、歯ぎしりして体をこわばらせてしまう、というのです。この息子の症状から、注解書などを見ますと、今で言う「てんかん」ではないか、とありました。自分の息子が病にある。どうか、助けてほしい、とこの人はイエスさまの弟子たちにお願いしましたが、できなかった、ということです。
その様子を見ていた人たちが集まって来ました。また律法学者たちもやって来て、イエスさまの弟子たちに対して、あなたがたは何の力もないではないか。そう言って、責め立てていた、ということが想像できます。弟子たちは何も反論できずに、自分たちの無力さを嘆いていたように思えます。私はこの時の弟子たちの気持ちを考えると、同情せずにはいられません。人生の試練に遭って、思い悩み、教会を訪ねて来られる方がおられます。病に苦しむ人がどうか、病が癒されるように助けてほしい、と言われます。しかし、その願い求めに対して、自分は何もできない。何と自分は無力なのだろうか、と自分自身に失望することが度々あります。今日の箇所に戻ります。イエスさまはこう言われました。
9:19 イエスはお答えになった。「なんと信仰のない時代なのか。いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。その子をわたしのところに連れて来なさい。」
イエスさまは「なんと信仰のない時代なのか」と言われましたが、これはこの聖書の出来事のあった時代だけのことではありません。私たちの時代も同じです。私にはできない、私には無理だ・・・。そういう私たちのこともイエスさまは同じように言われるのではないか、と思います。しかし、イエスさまの言葉はそこで終わりません。このように言われました。「その子をわたしのところに連れて来なさい」。弟子たちでは癒すことのできなかった子供をイエスさまはご自分のところに連れて来るようにと言われました。
イエスさまのところに連れて来られたこの息子はその症状を表し、確かに病であることが分かります(20節)。イエスさまはこの息子がいつからこのような状態になったのかお尋ねになりました(21節)。それに答える父親、そして、イエスさまの言葉を読んでみます。
9:21 イエスは父親に、「このようになったのは、いつごろからか」とお尋ねになった。父親は言った。「幼い時からです。9:22 霊は息子を殺そうとして、もう何度も火の中や水の中に投げ込みました。おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください。」9:23 イエスは言われた。「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる。」
父親はイエスさまに必死に助けを求めます。父親はこう言いました。「おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください」。「おできになるなら」というのは、それほど自分の息子の状態は大変な状態であることを表しているようです。どんな方法を使っても、どうすることもできない・・・。そんな大変な状態にある息子を助けていただきたい。ご無理を言っているようで申し訳ありませんが・・・。そんなニュアンスで言っているように聞こえます。
すると、イエスさまは「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる」と言われました。この父親の「おできになるなら」という言葉に引っかかったようにも思えますが、ここから知らされることは、この父親は人間のレベルで考えて、言ったのです。息子を癒すなんて、あなたの弟子たちはできなかったし、あなたもご無理ではないですか?人間には無理なことでしょうから。お願いすること自体、無謀なことですよね。これがこの父親の考えだったと思います。
一方、イエスさまは「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる」と言われました。あなたはいったい誰にお願いしているのか?人間ではなく、神さまにお願いしているのだろう?神さまは何でもおできになる方。神さまがなさることを信じなさい。そう言っているのです。この父親はイエスさまにこう答えました。9:24 その子の父親はすぐに叫んだ。「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」
私たちはいろいろなことを祈ります。祈りの対象、祈りの相手は神さまのはずです。それなのに、その神さまがなさることに期待しないで、自分の考える範囲の中で、神さまでもこれはできないだろう、無理だろう・・・、と自分で神さまという方がどの程度の方であるか、決めてしまうようなことはないでしょうか?今、コロナ渦にあって、教会の活動も限られている。人々をお誘いすることもできない。だから、神さまを求めて教会に来る人はいないのではないか?祈りながらも、そんなことを思い、あきらめたりしてはいないでしょうか?
この父親はイエスさまの言葉を聞いて、こう言いました。「信じます。信仰のないわたしをお助けください」。「信仰のないわたし」と言っていますが、この人は今まで、神さまを知らない、神さまなど信じていない人であったということではありません。しかし、イエスさまに出会って、自分の信仰というものがどういうものであったのか気づかされたのです。私は神さまを本当には信じていなかった。私は自分が考えている神さまのイメージを描いていただけだった。神さまという方はまあこれぐらい、この程度の方だろう、と思い、神さまという方が自分の思いをはるかに超えた方であるということを信じていなかったのです。
もう一つ、この父親の言葉から知らされることがあります。この父親がイエスさまに最初に言った言葉は「おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください」ということでした。それが次に言った言葉は「信じます。信仰のないわたしをお助けください」ということでした。この父親は、最初は自分の息子の癒しを願い求めていました。自分の息子、そして、それを支えている自分について、「わたしどもを憐れんでお助けください」と言っていました。それが次に言った言葉では「信仰のないわたしをお助けください」と言いました。「わたしども」から、「わたし」に変わっているのです。
私たちは自分が大変なのは、あの人が問題だから、この人のせいだから、そう考えてしまいます。しかし、この私が問題なのです。あの人やこの人ではなく、この私を助けてください。自分自身をイエスさまのところへ持って行く。その時、イエスさまは私たちを解決の道へと導いてくださるのです。この父親はそのことに気づかされたのです。

(むすび)
イエスさまの弟子たちは、イエスさまが癒しをなさった様子を見て(27節)、ひそかにイエスさまにこう尋ねました。「なぜ、わたしたちはあの霊を追い出せなかったのでしょうか」(28節)。イエスさまはこうお答えになりました。「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできないのだ」(29節)。「祈りによらなければ」とありますが、弟子たちは祈っていなかったのでしょうか?いいえ、祈っていたと思います。でも、肝心なことが抜けていました。あなたは誰に祈っていますか?その方はどのような方ですか?弟子たちは私が癒さなければ、私が助けなければ、と考えていました。しかし、癒してくださる方、助けてくださる方は誰であるかを忘れていました。私たちはイエスさまに祈り、イエスさまの癒し、イエスさまの助けを求めていきましょう。

祈り
恵み深い主なる神さま
息子の癒しを求める父親は主に願い求めました。「おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください」。しかし、この父親は主に出会い、主の言葉を聴いて、このように主に願い求めるようになりました。「信じます。信仰のないわたしをお助けください」。私たちもこの父親のように、神さまに祈ります。しかし、祈る対象である神さまご自身のことを本当に知っていたでしょうか?自分が知っているだけの神さまに留まっていないでしょうか?主は言われました。「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる」。
コロナ渦にあって、あれができない、これも無理、と考えてしまいます。しかし、聖書の言葉は語ります。
「わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり/わたしの道はあなたたちの道と異なると/主は言われる。天が地を高く超えているように/わたしの道は、あなたたちの道を/わたしの思いは/あなたたちの思いを、高く超えている」(イザヤ55章8、9節)。
私たちの思いをはるかに超えて生きて働いておられる神さまを信頼して歩む者としてください。
私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン

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