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2020年11月15日 主日礼拝(朝・夕拝)説教 「心にかける信仰」


聖書―フィリピの信徒への手紙2章19~30節
(はじめに)
 私たちの教会の女性会で毎月出している月報「シオン」には、姉妹方の信仰の証しが書かれていて、私は読む度に励ましを受けていますが、9月の巻頭言に「マスクの下でも惜しみなく」という文章がありました。新型コロナの感染拡大を予防するため、私たちは外出時にはマスクを着用するわけですが、巻頭言を書かれた姉妹は「マスクの下でも惜しみなく笑顔を」と心に決めておられるということです。マスクの下というのは、人には見えない部分です。
 新約聖書・マタイによる福音書6章には、当時のユダヤの人々の信仰の徳とされたこと、施しをすること、祈ること、断食をすることについて、イエスさまが語られた言葉が書かれています。そこで繰り返し、イエスさまが言われたことは「隠れたことを見ておられるあなたの父」ということです。隠れたことというのは、マスクの下のことです、私たちには見えないところです。けれども、あなたの父、すなわち、神さまは見ておられます。マスクの下、隠れたところ、それは私たちの心の中です。そこでも笑顔を、というのは素晴らしい信仰的な決心です。
 イエスさまは人々が信仰の徳と言われる行為をわざわざ人に見られるように行っていたことを知っておられて、隠れたことを見ておられる神さまの話をされました。人が見ていないところ、しかし、そこは神さまが見ておられるところ。そこであなたは本当に施し、祈り、断食を行えますか?神さまに向かって、心から行っていますか?と問いかけておられるのです。マスクの下でも、隠れたところでも、人には見えませんが、神さまが見ておられるそこで、笑顔を、喜びを、感謝をささげていきたいと思うのです。そして、心の中で思っていること、行われていることはやがて外に表れていきます。私たちの笑顔、喜び、感謝の心は他者を励まし、元気を与えます。私たちは世の光、地の塩(マタイ5章13~16節)とされていることをおぼえたいと思います。

(聖書から)
 今日お読みしました聖書はフィリピの信徒への手紙2章19~30節です。使徒パウロはこの手紙を書いた時、ローマの牢獄にいたと言われています。そんな厳しい状況にあって書かれたこの手紙は「喜びの手紙」と言われています。それは「喜び」という言葉が何度も出て来るからです。それはパウロが牢獄の中にあって喜んでいたから、「喜び」という言葉を何度も書くことができたのです。19節にはこのようなことが書かれています。
2:19 さて、わたしはあなたがたの様子を知って力づけられたいので、間もなくテモテをそちらに遣わすことを、主イエスによって希望しています。
 パウロは「わたしはあなたがたの様子を知って力づけられたい」と言っています。フィリピの教会の様子を知りたい。それによって、私は力づけられたい、励ましを受けたい、と言っているのです。このことから、パウロにとっての喜びとは、フィリピの教会であったことが分かります。私たちも、教会に集って、兄弟姉妹と会い、交わりを持つことができるのは喜びですね。今は新型コロナの感染を注意しながら、ということでなかなか交わりを持つことも難しくなっていますが、互いのことを祈り合ったり、電話やメールなどで連絡を取り合ったりしながら、互いに祈り合い、励まし合っていきたいと思います。
 さて、パウロはテモテをフィリピの教会に遣わすと言っています。そのテモテのことを続く20節ではこのように言っています。
2:20 テモテのようにわたしと同じ思いを抱いて、親身になってあなたがたのことを心にかけている者はほかにいないのです。
テモテについて、「親身になってあなたがたのことを心にかけている者」と言っています。この「心にかける」というところから、今日の説教題を付けました。私は新共同訳聖書の「心にかける」という言葉はとても良い言葉だと思いました。他の訳では「心配している」となっていて、これも「心を配る」ということですから、良い言葉だと思います。パウロはテモテを派遣することでフィリピの教会の様子を知ろうと考えました。そればかりか、テモテという人物と出会うことは有益なことと考えたからだと思います。なぜ、そう言えるかというと、20節にありましたように、親身になってフィリピの教会のことを心にかけているというテモテのフィリピの教会に対する愛です。そして、21節ではこのようなことが言われています。
2:21 他の人は皆、イエス・キリストのことではなく、自分のことを追い求めています。
 テモテという人はどういう人物であるか、この言葉からも分かります。他の人は自分のことを追い求めているけれども、テモテはイエス・キリストのことを追い求めている。ここで言われている「他の人」というのは、イエスさまを信じていない人ということではないと思います。イエスさまを主と信じている人。しかし、その多くはイエスさまのことではなく、自分のことを追い求めている。その中でもテモテという人は自分のことよりもイエスさまのことを追い求めている人である。
 私は青年時代に良い出会いを体験したと思っています。当時、父が牧会していた教会で協力牧師をされていた先生、そして、同じ市内の教会の宣教師の先生、この先生たちとの出会いは私の信仰の歩みに大きな影響を与えました。イエス・キリストを追い求める信仰、神の国と神の義を第一とする信仰を学びや交わりの中で教えていただきました。人との出会い、その人格に触れることはとても大切なことです。22節にはこのようなことが書かれています。
2:22 テモテが確かな人物であることはあなたがたが認めるところであり、息子が父に仕えるように、彼はわたしと共に福音に仕えました。
 パウロはテモテについて、「確かな人物」と言っています。口語訳聖書では「テモテの錬達ぶり」とありました。岩波訳聖書では「テモテの[筋金入りの]資質」となっています。「練達」というと、ローマの信徒への手紙5章4節にも同じ原語の言葉が「練達」と訳されています。新改訳では「練られた品性」、聖書協会共同訳では「品格」となっています。私たちの人生には試練があります。それは私たちにとって、辛く、嫌なことではありますが、私たちを練られた品性、品格へと成長させるものであることがこのローマ書5章が教えていることです。
 私たちにとって、21節に書いてあるこの言葉、イエス・キリストのことを追い求める。そんなことはできっこないと考えるかもしれません。自分のことで精一杯で、神さまのこと、他者のことまで頭も手も回らない、と考えるかもしれません。しかし、パウロもテモテも、自分のために命をささげてくださったイエスさまの愛を知ることによって、その愛に促され、押し出されてイエスさまのために、他者のために、という生き方に変えられていったのです。また神の国と神の義を求めることによって、神さまからの恵みを体験したのだと思います。そのみ言葉も読んでみましょう(マタイ6章31~34節)。
6:31 だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。6:32 それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。6:33 何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。6:34 だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」
 イエス・キリストを追い求める。神の国と神の義を求める。そうするならば、私たちにとって本当に必要なものが加えて与えられるとあります。このイエスさまの言葉を信じて歩んでまいりましょう。
 25節以下には、もう一人の人物について、パウロは書いています。エパフロディトという人です。この人は牢獄にいるパウロを見舞うために、フィリピの教会からパウロのもとに送り出された人でした。しかし、その働きのために病気になってしまったということです。この人について、パウロはこう言っています。
2:25 ところでわたしは、エパフロディトをそちらに帰さねばならないと考えています。彼はわたしの兄弟、協力者、戦友であり、また、あなたがたの使者として、わたしの窮乏のとき奉仕者となってくれましたが、 2:26 しきりにあなたがた一同と会いたがっており、自分の病気があなたがたに知られたことを心苦しく思っているからです。
 フィリピの教会の中には、私たちはせっかくエパフロディトをパウロのもとへ送り出したのに、途中で病気になってしまい、その役目を十分に果たすことができなかったのではないか、と批判する人たちがいたかもしれません。しかし、パウロは、エパフロディトは私の兄弟であり、協力者、戦友であり、あなたがたからの使者、私のために奉仕してくれた人、そのように言って、27節以下にも書かれていますように、エパフロディトのことを敬うように語るのです。

(むすび)
 今日はテモテとエパフロディトという二人の人物について、聖書から学びました。テモテもエパフロディトもイエス・キリストを追い求めた人、神の国と神の義を求めた人でした。コロナ渦にあって、なかなかお互いに直接会って、話したりすることが難しい状況にありますが、パウロがテモテのこと、エパフロディトのこと、そして、フィリピの教会の人たちのことを心にかけたように、私たちもどのような状況にあっても、お互いのことを心にかけていきたいと思います。そのために私たちができること、それはお互いのことを心を込めて祈るということです。そこから新しいこと、主のみわざが起こることを信じています。お祈りいたします。

祈り
恵み深い主なる神さま
 日に日に寒くなってきました。新型コロナの感染が拡大してきたことをニュースなどで聞きます。感染の予防に励んでいますが、そのことによって、お互いの心の距離まで離れてしまうのではないか、と気になります。
 しかし、主よ、あなたは私たちを信仰によって結びつけくださっています。今日読みましたフィリピの信徒への手紙を書き記したパウロは別の手紙では「わたしは体では離れていても、霊ではあなたがたと共にいて」(コロサイ2章5節)と書き記しています。私たちも同じです。霊においては共にあるお互いであることを感謝します。
 パウロは自分が牢獄の中にいるのに、テモテのこと、エパフロディトのこと、フィリピの教会の人たちのことを心にかけていました。神さまの愛を受けて、そのような言葉、行いが表れたのだと思います。私たちにも神さまの愛を与えてくださり、その愛からすべてのことを語り、行う者とさせてください。
私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン

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