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【礼拝説教】2021年4月11日「何を願いとするか」

2021年 4月11日(朝・夕)礼拝説教「何を願いとするか」マルコによる福音書10章35~45節

聖書―マルコによる福音書10章35~45節
(はじめに)
 私たちの祈りはどのようなものでしょうか。何を願いとしているか、何を求めているか、そのことをかえりみることは大切なことだと思います。キリスト教の書店にいきますと、祈りについて書かれたものが幾つも置いてあります。祈りの本からも祈りを教えられますが、私たちに与えられているこの聖書そのものから、祈りを教えられます。例えば、旧約聖書の詩編には、多くの祈りの言葉が記されており、そこから、私たちは祈りを学ばされます。また、イエスさまも、弟子たちに祈ることを教えられました。私たちも、その祈りを知っていると思います。「主の祈り」がそうです。
 ルカによる福音書11章1節には、イエスさまの弟子の一人がイエスさまに「わたしたちにも祈りを教えてください」と言っています。この求めに対して、主が教えられたのが、「主の祈り」といわれる祈りです。この「主の祈り」は私たちにとっては、祈りの基本、祈りのひな形といえるものです。まず、神さまご自身のことを祈り、そして、私たちの必要について祈る、そのような祈りがここに教えられています。まず、神さまご自身のこと、つまり、神さまのみ心を求めて祈る。そのような私たちでありたいと思います。

(聖書から)
 さて、今日お読みしました聖書の箇所は、イエスさまの弟子であるゼベダイの子ヤコブとヨハネ、この二人の弟子とイエスさまの対話から始まります。このヤコブとヨハネは兄弟でした。この二人の兄弟がイエスさまのもとに行き、そこでこのように言いました。「先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが」(35節)。
 この弟子たちは、自分たちが願っていることをかなえてくださるように、と言っています。これに対して、イエスさまはこのように言われました。「何をしてほしいのか」(36節)。主はこの二人の弟子がいったい、何を願っているのか、お尋ねになりました。すると、この弟子たちは主にこのように言っています。「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください」(37節)。主が栄光をお受けになるとき、それはどういうことでしょうか。ここではまず、この二人の弟子が考えていた「主の栄光」とはどんなものかを知る必要があると思います。
 イエスさまの弟子たちはイエスさまとずっと行動を共にし、生活を共にしていました。ですから、イエスさまからはいろいろなことを教えられていたことと思います。この時にはすでにイエスさまはご自分が十字架におかかりになることも弟子たちに教えていました。同じマルコによる福音書10章33、34節にこのようなことが記されています。「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す。異邦人は人の子を侮辱し、唾をかけ、鞭打ったうえで殺す。そして、人の子は三日の後に復活する」(10章33、34節)。
 イエスさまは十字架におかかりになり、死なれる。しかし、弟子たちはそのことを理解しませんでした。彼らはこう思ったのかもしれません。自分たちにとって、イエス様はそういう方ではない。捕えられ、殺されてしまう。そういうことはあってはならない。いや神の子であるから、そんな目にはあわないで、ついにはこの世を支配して栄光の姿をあらわされるだろう。だから、そのようなときが来たら、ぜひ、私たちをイエスさまの右と左に置いてください、と彼らは願ったのかもしれません。
この聖書の記事と同じ内容の箇所がマタイによる福音書20章20節以下にあります。しかし、そこには少し内容が違うところがあります。どこが違うかというと、今日お読みしたマルコでは、ヤコブとヨハネが自分たちをイエスさまの右と左へ、と願っているように記されていますが、マタイでは、この二人の母親がそのことを願っているとあります。これらのことを合わせて考えますと、これはこの家族の願いであった、ということができるのではないでしょうか。この弟子たち、そして、この母親にとって、イエスさまの弟子になるということは、何か偉くなるため、出世コースを進むため、ということだったのではないでしょうか。
 このような弟子たちの願い、求めに対して、主はこう言われます。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない」(38節)。自分が何を願っているのか、分かっていない。これは彼らの願っていることに対しての答えです。主の厳しい言葉がここに語られています。
 そして、それに続いて、イエスさまはこのようなことを言われました。「このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼(バプテスマ)を受けることができるか」。すると、弟子たちは「できます」(39節)と答えました。ところで、このやり取りですが、ここでイエスさまが尋ねられたことの意味を、この弟子たちは分かっていたのでしょうか。
 主がここで言われた「杯」、そして、「洗礼(バプテスマ)」ということ、それはいったいなんでしょうか。「わたしが飲む杯」、「わたしが受ける洗礼(バプテスマ)」、それは主が苦しみを受けられる、十字架のことです。先ほど、主が弟子たちにご自分が捕えられ、殺されることを伝えた箇所を読みましたが、そのことを弟子たちは理解していませんでした。そういう弟子たちでしたから、ここで主が言われた十字架の苦しみについても分からなかったと思います。それなのに、彼らは「できます」と答えています。
 この弟子たちの言葉に対して、主は「確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼(バプテスマ)を受けることになる」と言われました。イエスさまの言われた杯とバプテスマ、その意味を分かっていないで答えた弟子たちでしたが、この後、彼らは、神さまに従うゆえの苦しみを受けることになり、その時、初めて、イエスさまの言われた杯とバプテスマの意味を知ることになります。
 主が十字架にかかるすぐ前に弟子たちの足を洗った、という聖書の記事があります。主はご自分が身をもって、仕える者として生きることを示され、やがて、十字架を通して、そのことをはっきりと示されました。ヨハネによる福音書13章にそのことが記されています。この時には弟子たちはその意味がまだはっきりとは分かりませんでしたが、主は弟子たちにこう言われています。「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」(ヨハネ13章7節)。
 主はこのように、今は分からなくても、後で分かるようになる。その時のために弟子たちに大切なことを示されました。そして、今日の箇所でも、弟子たちがご自分の飲む杯を飲み、ご自分が受けるバプテスマを受ける、と言われ、これから後に弟子たちにも起こることとして、示されました。私たちも主の言葉を聞いても、今は分からないかもしれません。しかし、後で分かるようになる。その歩みの中で気づかされることがあるのです。一方で彼らが求めたこと、主の右と左に、ということについては「わたしの右や左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、定められた人々に許されるのだ」(40節)と言われました。これはあなたがたが求める必要のないことだ、という意味だと思います。
 このやり取りを他の弟子たちは聞いて、腹を立てた、とあります(41節)。しかし、これはヤコブとヨハネが間違ったことを求めた、と言うことに対しての怒りではなく、自分たちを出し抜いて、出世を求めた、ということに対しての怒りであったと思います。ですから、他の弟子たちも、この二人の弟子とまったく変わらないことを願い、求めていたのです。

(むすび)
 すべてをご存じのうえで、主は弟子たちにこのように言われました。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」(42~44節)。
偉くなりたい、出世したい、そのような願いを持っていた彼らに対して、主はこう言われます。仕える人になるように、僕になるように。そして、主ご自身がそのような方として、この世においでになったことを示されました。
 最初に言いました、私たちが何を願うか、何を求めるか、そして、何を祈るべきか。私たちはイエスさまの言葉から、そのことを示されるのではないでしょうか。最後に45節をお読みして終わります。「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」。仕える者として、僕として来られた主にならって、私たちも歩みたいと思います。 

祈り
恵み深い主なる神さま
 主の弟子たちは、主の弟子として生きることがどういうことであるか、まだ分かっていませんでした。それで主が栄光をお受けになるときには、その右と左に座らせてください、と願いました。
 主の栄光。それは私たち人間が考えるような栄光ではありません。十字架におかかりになった、仕える者として生き、僕として生きられたイエスさまのことです。
 どうか、私たちが主の心を知り、主の歩みにならって生きる者としてください。
私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン

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