【週報巻頭言】2021年4月25日 見ないのに信じる人(ヨハネ20章1~18節)
「マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、「わたしは主を見ました」と告げ、また、主から言われたことを伝えた。」(ヨハネ20章18節)
マリアは弟子たちにこのように言います。「わたしは主を見ました」。この主を見た、というのは、墓に葬られ、死んでしまったイエスさま、イエスさまの遺体を見た、ということではありません。この私に呼びかけてくださった、語りかけてくださったイエスさま、復活された、生きておられるイエスさまを見た、ということです。そして、マリアは主が語られた言葉を弟子たちに伝えました。マグダラのマリアは復活の主を見ました。この後、復活の主は弟子たちにも顕れます。私たちも復活の主を見たいと思います。しかし、主はこう言われます。この言葉は、自分は復活の主を見ないと信じません、と言ったトマスに、そして、私たちにも言われた言葉だと思います。
「イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」」(ヨハネ20章29節)
見ないのに信じる人。これは私たちのことです。そういう私たちにイエスさまは幸いと言われました。マグダラのマリアは「私は主を見ました」と言いました。私たちはどうでしょうか。主を見ていない、というのでしょうか。いいえ、私たちも「私は主を見ました」と言うことができるのです。肉眼ではイエスさまを見ることはできませんが、イエスさまが私たちと共におられる。そのことを私たちは信じています。それが「私は主を見ました」ということです。復活の主は今も生きておられます。私たちと共に歩んでおられます。霊の目を、信仰の目を見開いて、イエスさまを見つめて歩んでまいりましょう。
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