【週報巻頭言】2021年5月2日 今は分からなくても(マルコ10章35~45節)
イエスさまはこのようなことを言われました。「このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼(バプテスマ)を受けることができるか」。すると、弟子たちは「できます」(マルコ10章39節)と答えました。ところで、このやり取りですが、ここでイエスさまが尋ねられたことの意味を、この弟子たちは分かっていたのでしょうか。
主がここで言われた「杯」、そして、「洗礼(バプテスマ)」ということ、それはいったいなんでしょうか。「わたしが飲む杯」、「わたしが受ける洗礼(バプテスマ)」、それは主が苦しみを受けられる、十字架のことです。主は弟子たちにご自分が捕えられ、殺されることを伝えていました(33、34節)が、そのことを弟子たちは理解していませんでした。そういう弟子たちでしたから、ここで主が言われた十字架の苦しみについても分からなかったと思います。それなのに、彼らは「できます」と答えています。
この弟子たちの言葉に対して、主は「確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼(バプテスマ)を受けることになる」と言われました。イエスさまの言われた杯とバプテスマ、その意味を分かっていないで答えた弟子たちでしたが、この後、彼らは、神さまに従うゆえの苦しみを受けることになり、その時、初めて、イエスさまの言われた杯とバプテスマの意味を知ることになります。
主が十字架にかかるすぐ前に弟子たちの足を洗った、という聖書の記事があります。主はご自分が身をもって、仕える者として生きることを示され、やがて、十字架を通して、そのことをはっきりと示されました。ヨハネによる福音書13章にそのことが記されています。この時には弟子たちはその意味がまだはっきりとは分かりませんでしたが、主は弟子たちにこう言われています。「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」(ヨハネ13章7節)。主はこのように、今は分からなくても、後で分かるようになる。その時のために弟子たちに大切なことを示されました。私たちも主の言葉を聞いても、今は分からないかもしれません。しかし、後で分かるようになる。その歩みの中で気づかされることがあるのです。
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