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2021年8月22日【礼拝説教】「キリストにあって一つ」

聖書―コリントの信徒への手紙一1章10~17節
(はじめに)
お読みしました聖書の箇所はコリントの信徒への手紙一の1章10節以下です。この箇所について、私たちの教会で使用しています新共同訳聖書は「一致の勧め」という小見出しを付けています。別の訳の聖書、岩波訳の聖書では「争いを越えて」というテーマになっています。一致、争い、これはどこの話かというと、教会の話です。教会の中で、争いがあった。そこで、この手紙を書いたパウロは一致、一つになることを勧めているという内容が今日の聖書の箇所に書かれています。

(聖書から)
お読みしました聖書の箇所の最初に「さて、兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストの名によってあなたがたに勧告します」(10節)とあります。イエス・キリストの名によって勧告、お勧めします、と言っています。イエスさまの名によって、とありますが、イエスさまが求めておられることとして、語っています。ではどのような勧めであったかというと、「皆、勝手なことを言わず、仲たがいせず、心を一つにし思いを一つにして、固く結び合いなさい」ということです。
教会の中に、勝手なことを言う人たちがいて、仲違いが起こっていたようです。11節には、「あなたがたの間に争いがある」と聞いていた、とあります。そこで、パウロは心を一つにし、思いを一つにして、固く結び合うように、と言いました。この仲違い、争いについて、12節に具体的に書かれています。「あなたがたはめいめい、「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロに」「わたしはケファに」「わたしはキリストに」などと言い合っている」。
教会の中で、ある人たちはパウロの名のもとにグループを作っていたようです。他にも、アポロのグループ、ケファ(これはペトロのことです)のグループ、そして、キリストのグループなどがあったようです。これはまるで政治家の人たちの派閥のように思えます。けれども、パウロのグループだから、パウロがグループのリーダーになっていたとか、アポロがリーダーになっていた、ということではありませんでした。グループの名前はパウロ派とか、アポロ派となっているかもしれませんが、その名前の当人は何もそのグループに関わってはいなかったようです。この手紙の送り手のパウロも、なぜ、私の名前を使って、グループを作っているのだろう?と不思議に思っていたかもしれません。
これらのグループを作り、そこに属していた人たちというのは、パウロを尊敬していたとか、アポロやケファを尊敬していて、その名の下に集まったのでしょう。興味深いのは、「私はキリストにつく」と言っていた人たちのことです。この人たちについては、パウロだの、アポロだの、ケファだの、言っているけれど、私たちはイエス・キリストにしっかりつながっている。真っ当なクリスチャンだ、と考えていた人たちかもしれません。
しかし、パウロはどのグループのことも、それでよいとは思っていませんでした。教会がいろいろなグループによってバラバラになっている。そのことを大変心配していたのです。それでパウロはこのようなことを言っています。「キリストは幾つにも分けられてしまったのですか。パウロがあなたがたのために十字架につけられたのですか。あなたがたはパウロの名によってバプテスマ(洗礼)を受けたのですか」(13節)。
教会がバラバラになっている。そのことをパウロは、キリストは幾つにも分けられてしまったのか、と言っています。教会とは何かというと、「キリストの体」であるとパウロは言っています(エフェソ1章23節)。私たちはその体の各器官、大切な各部分です。それがバラバラになっている・・・。
教会の中にいろいろなグループがあるというのは、間違いというわけではありません。私たちの教会の中にも、壮年会、女性会、青年会などのグループがあります。教会学校もいろいろなクラスがあります。でも、バラバラになっているわけではありません。それぞれの役割、働きに応じて、そのようなグループに分けられ、同じキリストを見上げ、キリストのために働きをし、学びをしています。キリストの体として、支え合い、助け合い、互いに協力する群れとして歩んでいます。今はコロナ禍にあって活動の多くが再開できない状態ですが、その日を待ち望んでいきましょう。
このコリントの教会で問題となっていたのは、13節の後半で言われているような状態だったからです。「パウロがあなたがたのために十字架につけられたのですか。あなたがたはパウロの名によってバプテスマ(洗礼)を受けたのですか」。ここには、十字架とバプテスマのことが言われています。十字架というと、私たちはみんな答えられると思います。この私のために十字架につけられたのは誰ですか?この質問にここにいる皆さんはすぐに答えられると思います。私のために十字架につけられたのはイエス様です!と。バプテスマについてはどうでしょうか?私は誰の名によってバプテスマを受けたか。バプテスマを受けられた方はこれもすぐに答えられると思います。私はイエス様のみ名によってバプテスマを受けました!と。
ところが、コリントの教会の中には、イエス様の十字架の救いが忘れ去られ、自分たちの知恵や行いを誇ったり、自分がイエス様のみ名によってバプテスマを受けたことよりも、誰が自分を導いたか、誰が自分にバプテスマを授けたか、そのことを誇ったりする人たちがいて、パウロ派、アポロ派、ケファ派などのグループが互いに誰が偉いか、正しいか、競い合い、争うようになっていたのです。
そういうコリントの教会に向かって、パウロはこのように言いました。「皆、勝手なことを言わず、仲たがいせず、心を一つにし思いを一つにして、固く結び合いなさい」。この「皆、勝手なことを言わず」という言葉は口語訳聖書では「みな語ることを一つにして」となっていました。語ることを一つにする。この語ることを一つにする、というのはどういうことかというと、神さまの言葉を語るということです。では、勝手なこととは何かというと、神さまの言葉ではないことをそれぞれに好き勝手に語るということです。
いろいろなグループがあって、それもお互いに協力し合うことをしない。支え合い、助け合うことをしない。なぜ、そうなっていたのかというと、神さまの言葉から離れていたからです。お互いが自分たちの方が正しい、自分たちの方が優れている。そのように言い合っていたのです。神さまの言葉を聴くことをせず、自分たちの言葉、主張をし合うだけ、その結果、教会はバラバラになってしまったのです。そのことを心配していたパウロは神さまの言葉に聴くように、イエス・キリストに立ち帰るように、とコリントの教会に語ったのです。

(むすび)
今日の聖書の箇所の最後の言葉をお読みします。「なぜなら、キリストがわたしを遣わされたのは、バプテスマ(洗礼)を授けるためではなく、福音を告げ知らせるためであり、しかも、キリストの十字架がむなしいものになってしまわぬように、言葉の知恵によらないで告げ知らせるためだからです」(17節)。パウロは自分自身が何のためにキリストから遣わされたかを語ります。「キリストがわたしを遣わされたのは、バプテスマ(洗礼)を授けるためではなく、福音を告げ知らせるためであり、しかも、キリストの十字架がむなしいものになってしまわぬように、言葉の知恵によらないで告げ知らせるため」。
バプテスマを授けることは意味がないと言っているわけではありません。自分が人々にバプテスマを授けて、自分の言葉や行いによって、こんなに多くの人たちをキリストに導いた。そういうことを誇るために私は遣わされたのではないのだ、と言っているのです。私の使命は福音を告げ知らせるため。そして、私は何を語ってきたかというと、キリストの十字架を語ってきたのだ、というのです。キリストがこの私のために、あなたのために十字架についてくださった。それはこの私が、あなたが、罪から救われ、永遠の命に生きるため。これがパウロの使命であり、私たち教会の使命です。
私たちも、パウロに続いていきたいと思います。私たちが教会として歩む。福音を伝える。様々な働きに励む。それらのすべてはイエス様が私たちのために十字架についてくださったからです。自分を誇るためでなく、私たちを罪から救い、永遠の命へと導いてくださった方、イエスさまを誇りとし、イエスさまを表すことを求めていきましょう。ガラテヤの信徒への手紙2章20節の言葉を読んで終わります。「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです」。

祈り
恵み深い主なる神さま
パウロはコリントの教会が神さまの言葉から離れ、十字架の主を見失って、争っている様子を伝え聞き、主に立ち帰るように語りました。
「皆、勝手なことを言わず、仲たがいせず、心を一つにし思いを一つにして、固く結び合いなさい」。この言葉を私たちもしっかりと受け止めていきたいと思います。同じ一つの言葉、神さまの言葉を聴き、語り、そこから、歩んでいく群れとして導いてください。
私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン

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