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【礼拝説教】2021年10月10日「主が来られることを信じて」

2021年10月10日(日)(朝・夕)赤塚教会礼拝説教「主が来られることを信じて」マルコによる福音書13章14~27節

聖書―マルコによる福音書13章14~27節
(はじめに)
 マルコによる福音書13章は「小黙示録」とも言われる箇所です。黙示録というと、新約聖書の最後のところにあるヨハネの黙示録を思い起こされる方があると思いますが、このマルコによる福音書に書かれている「小黙示録」、先週もお読みしましたが、終末、終わりの日に備える生き方を教えています。終末、終わりの日というと、この世の終わりのことを言いますが、私たちにとっては、人生の終わりの日のことを考えたらよいと思います。私たちのこの地上での生涯、人生は限られています。その限られた人生をどう生きるのか。これは大切なことです。ある人は人生をマラソン、長距離走に例えます。皆さんは自分に与えられている人生をどう生きるのか。そのことをこの聖書の言葉から考えていけたらと思います。

(聖書から)
 今日の最初の言葉、14節をお読みします。
13:14 「憎むべき破壊者が立ってはならない所に立つのを見たら――読者は悟れ――、そのとき、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい。
 「憎むべき破壊者」とあります。当時のユダヤの人たちにとっては、自分たちの国を、そして、自分たちを苦しめる人のことが言われています。その人が「立ってはならない所に立つのを見たら・・・」。この「立ってはならない所」とは、何でしょうか?これは神殿のこと、ユダヤのエルサレムの神殿のことを指しています。神殿とは、神さまを礼拝するところです。「立ってはならない所」とありますが、神さま以外の者がそこに立つことは許されないのです。そうでなければ、その人は自分が神である!と言っていることになります。
 神殿というのは、私たちにとってはなじみのないものですが、神殿について、このように書いてある箇所があります(一コリント3章16、17節)。
3:16 あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。3:17 神の神殿を壊す者がいれば、神はその人を滅ぼされるでしょう。神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたはその神殿なのです。
 ここに「あなたがたは、自分が神の神殿であり」とあります。パウロがコリントの教会の人たちに言った言葉ですが、これは私たちのことでもあるのです。私たちは神さまの神殿。どうして、このようなことが言えるのかというと、「神の霊が自分たちの内に住んでいる」からです。神さまを信じる人はその人の内に神さまの霊が、聖霊が住んでいるというのです。だから、神さまを信じるあなた方は神さまの神殿なのだ、とパウロは言います。
 今、イエスさまを信じて、新しい人生を歩んでいきたい、と言われる方がおられます。キリスト者として歩んでいくための準備のクラスを持っていますが、そのクラスの中で、心の王座ということについて学びました。心の王座とは何でしょうか?生まれながらの私たちの心の王座にいるのは、自分です。自分が心の王座にいる。自分が人生の中心です。しかし、イエスさまを信じるというのは、その心の王座を自分からイエスさまに明け渡すということです。そして、イエスさまに自分の人生の中心になっていただくのです。
 先ほどお読みしました聖書の言葉には、「憎むべき破壊者が立ってはならない所に立つのを見たら」とありました。「立ってはならない所」。神さまがお立ちになるところ、神殿の中心、王座、そこに神さまではない者が立ってはならない、そこに自分が立ってはならないのです。自分が神殿の中心、王座の中心であってはならないのです。
 さて、この「憎むべき破壊者」、神さまに成り代わって神になろうとする者が現れたなら、私たちはどうしたらいいのでしょうか?14節には「山に逃げなさい」とありました。15節以下にも、同じようなことが言われています。そこにはあなたがたは憎むべき破壊者に立ち向かいなさい、とは言われていません。18節には、このようなことが言われています。「このことが冬に起こらないように、祈りなさい」。祈るように、と言われています。
 19節にはこのようなことが語られていました。
13:19 それらの日には、神が天地を造られた創造の初めから今までなく、今後も決してないほどの苦難が来るからである。
 今日の聖書箇所には、迫害や苦難というものが来ることが言われています。それに対して、私たちがすることは逃げることとか、祈ることだというのです。一見、消極的なように思えます。しかし、ここで示されていることは、私たちの力では迫害や苦難に立ち向かうことはできない、ということです。では黙って見ているだけ、我慢しているだけなのでしょうか?いいえ、私たちには神さまの助けがあるというのです。そのことが20節に言われています。
13:20 主がその期間を縮めてくださらなければ、だれ一人救われない。しかし、主は御自分のものとして選んだ人たちのために、その期間を縮めてくださったのである。
 「主がその期間を縮めてくださらなければ、だれ一人救われない」とあります。そして、「主が御自分のものとして選んだ人たちのために、その期間を縮めてくださった」というのです。ここで「主が御自分のものとして選んだ人たち」というのは、イエスを主と信じる人たちのことです。私たちのために、迫害や苦難の期間を縮めてくださった、というのです。
 この後に、偽メシア、偽預言者の出現について語られています。私たちはそのような偽物が来るようなことがあっても、惑わされないように、だまされないようにしていなければなりません。そのためにどうするのかというと、本物を知ることです。神さまを知り、神さまの言葉に養われることです。情報化社会と言われる現代、インターネットなどでいろいろな情報を見たり、聞いたりするわけですが、何でも鵜呑みにしていたら大変なことになります。何が本当のことなのか、真実なのかを見極めていくことが必要です。
 私たちは、「主が御自分のものとして選んだ人たち」とされていることを感謝したいと思います。主によって選んでいただいた私たち。もう一つ、このことについて、24節以下にはこのようなことが語られています。
13:24 「それらの日には、このような苦難の後、
/太陽は暗くなり、/月は光を放たず、
13:25 星は空から落ち、
/天体は揺り動かされる。
13:26 そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。13:27 そのとき、人の子は天使たちを遣わし、地の果てから天の果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める。」
 ここにも、終わりの日のことが言われています。終わりの日、あるいは終末というと、恐ろしい日のように思えますが、ここに言われていますように、その日というのは、人の子、ここで人の子というのは、イエス・キリストのことです。イエスさまが再びおいでになる日であると言われています。そして、主は何をなさるのかというと、「人の子は天使たちを遣わし、地の果てから天の果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める」とありますように、主によって選ばれた人たちを四方から呼び集める。あちらこちらから呼び集める、というのです。このことから、分かることは、私たちは主によって選ばれた者であり、また主によって呼び集められた者ということです。

(むすび)
 一昨年だったでしょうか、オリンピックの代表に選ばれる可能性の高いある水泳選手が白血病に罹り、選手生命も危ぶまれるようなことがありました。その選手は誰から聞いた言葉だったのでしょうか、「神さまは乗り越えられない試練は与えない」ということを言っていました。これはある聖書の言葉とよく似た言葉です。その聖書の言葉を読んでみます(一コリント10章13節)。
10:13 あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。
 乗り越えられない試練は与えない。その言葉の後に「試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます」と続いています。突然の病に苦しんだこの選手はオリンピックが一年延期になったこともあってか、晴れて日本の代表選手として選ばれました。その活躍した姿は皆さんもご覧になったと思います。本当に良かったと思います。そして、私はこの聖書の言葉を読むと、反射的に思い出すもう一つの聖書の言葉があるのです。その言葉もお読みします(ローマ8章28節)。
8:28 神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。
 「万事が益となるように共に働く」。この言葉も私たちを励ます言葉です。そして、この言葉について言えば、「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たち」には万事が益となるように共に働く、というのです。この召された者たちというのは、今日お読みしました聖書にありました「呼び集められた者たち」ということです。
 今日の聖書には、迫害や試練のことが書かれていましたが、ただいま二つの聖書の言葉をお読みしましたように、神さまを信頼して生きる者には、逃れる道が備えられている、万事が益となるように共に働く、このような約束があることをおぼえたいと思います。また迫害や試練に対して、逃げる、とか、祈る、ということが言われていましたが、それは神さまに助けを求めること、神さまにお委ねすることを意味しています。私たちの人生、それは長距離走のようなもので、その歩みの中ではいろいろなことがありますが、主が私たちを助けて、この地上の人生を完走させてくださり、天の国、永遠の命へと導いてくださることを信じて歩んでまいりましょう。

祈り
恵み深い主なる神さま
 私たちはあなたによって選ばれた者であり、呼び集められた者です。それは私たちがそれにふさわしいからではなく、ただあなたの愛によるものです。感謝します。
 迫害や苦難の中にある時、逃げなさい、祈りなさい、と語られました。それは主に助けを求めること、主に委ねて生きることです。日々の歩みの中でも、様々なことで苦闘して生きている私たちです。私たちに必要な助けを、守りを与えてください。
私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン

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