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【週報巻頭言】2021年10月17日 神を誇りとして(一コリント1章26~31節)

「ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。1:28 また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。」(一コリント1章27、28節)

神さまの選びについて言われています。選ばれるというと、それこそ、それにふさわしい人ということを考えます。ところが、ここに書いてあることは、それとは違います。知恵ある者と無学な者だったら、どちらが選ばれるでしょうか?世の中の常識的に考えると、知恵ある者が選ばれるはずです。力ある者と無力な者はどうでしょうか?地位のある者と無に等しい者、身分の卑しい者、見下げられている者はどうでしょうか?ここには、無学な者が選ばれた、とあります。無力な者が選ばれた、無に等しい者、身分の卑しい者、見下げられている者が選ばれた、とあります。私たちの常識や価値観から考えると、不思議なことです。ではなぜ、神さまはそのような人たちをお選びになったのでしょうか?その理由が29節に書かれています。

「それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです。」(同29節)

私たちの誰一人、神さまの前で誇ることがないようにするため、とありました。知恵ある人、力ある人、地位のある人、そういう人たちが選ばれたなら、おそらく、このように言うでしょう。「ああ、自分には知恵があるから、力があるから、地位があるから選ばれたのだ」。そして、それがその人たちの誇りとなったでしょう。私は神さまに選ばれるのにふさわしい者だ、と神さまに対しても、人に対しても、誇ったりしたことでしょう。でも、自分には誇れるものは何もない、そういう人を神さまはお選びになった、というのです。

私たちはどうでしょうか?自分が今、イエスさまを信じて、神さまの子として、キリスト者として歩んでいる。それは神さまに選ばれるだけの何かができるから、何かを持っているから・・・。そう考えているでしょうか?神さまの選びというのは、私たちに、選ばれるだけの何かがあるから、ということではないのです。私たちに何かがあっても、なくても、神さまは私たちを選び、招いておられるのです。それに対して、私たちはどうしたらよいのでしょうか?そのことは次の言葉から知らされます。

「神によってあなたがたはキリスト・イエスに結ばれ、このキリストは、わたしたちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです。1:31 「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりになるためです。」(同30節)

ここに「誇る者は主を誇れ」とあります。自分を誇るのではありません。神さまを誇るのです。神さまを誇る。別な言葉で言い表すと、神さまを喜ぶ、ということです。私は神さまから招かれた、選ばれた。この私を選んでくださった神さまに対して行うことは、神さまを喜ぶということです。

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