【週報巻頭言】2021年11月7日 十字架につけられたキリスト(一コリント2章1~5節)
「兄弟たち、わたしもそちらに行ったとき、神の秘められた計画を宣べ伝えるのに優れた言葉や知恵を用いませんでした。なぜなら、わたしはあなたがたの間で、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていたからです。」(一コリント2章1、2節)
パウロは優れた言葉や知恵を用いなかった、と言っています。哲学者の誰々の言葉を引用するとか、人生の教訓とか、そういう言葉を用いるなら、ああ、良い話が聞ける、と人々が集まってきたのではないでしょうか。でも、パウロはこう言っています。「わたしはあなたがたの間で、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていた」。十字架につけられたキリストを宣べ伝えることに私は努めてきた、と言っています。
ところで、十字架につけられたキリストというのは、どういう意味でしょうか。イエス・キリストは十字架につけられたまま?いやそんなはずはない。十字架にかかって死んで、葬られ、三日目に復活された。それが聖書の教えるキリスト教の大切な教えです。それなのに、ここには、十字架につけられたキリストとあります。
「あなたがたが召されたのはこのためです。というのは、キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残されたからです。
『この方は、罪を犯したことがなく、/その口には偽りがなかった。』
ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。そして、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました。」(一ペトロ2章21~24節)
十字架につけられたキリスト。その意味がここに書かれています。「キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残された」。この方は私たちのために苦しみを受けられました。私たちも人生の苦しみがあります。どうして?なぜ?不条理とも思えるような苦しみに遭うことがあります。イエスさまが十字架におかかりになった、というのは、そういう私たちの苦しみをイエスさまも受けられた、ということです。
そして、もう一つ、大事なことが書かれています。「十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです」。イエスさまが十字架にかかったのは、私たちの罪を担ってくださるためでした。そのことによって、私たちは罪に対して死んで、イエスさまと一緒に新しい人生を生きる、神さまの愛と真実を求めて生きる者とされた、ということです。
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