【礼拝説教】2021年12月5日「まことの慰め」
聖書―イザヤ書40章1~11節
(はじめに)
アドベント、待降節の時を過ごしています。そして、世界バプテスト祈祷週間の最終日です。神さまが私たちのためにご自分の大切なみ子であるイエス・キリストをお送りくださったという大きな恵みをおぼえながら、この期間を過ごしていきましょう。
(聖書から)
お読みしました聖書はイザヤ書40章です。40章の1~11節をお読みしました。1節には、このような言葉が語られています。
40:1 慰めよ、わたしの民を慰めよと/あなたたちの神は言われる。
「慰めよ」とあります。私たちは慰めを求めます。ところで慰めとはどういう意味でしょうか?慰め、それは心に痛みを持つ人、苦しみや悲しみにある人をいたわり、立ち直らせるということです。教会とは何かというと、慰めの共同体であると言われます。なぜ、そう言えるのかというと、私たちの信じる神さまは慰めの神さまだからです(二コリント1章3節)。
1:3 わたしたちの主イエス・キリストの父である神、慈愛に満ちた父、慰めを豊かにくださる神がほめたたえられますように。
慰めを豊かにくださる神さまとあります。その神さまを信じ、神さまから慰めを受けた私たちは教会の兄弟姉妹を慰める者、慰め合う者とされています。さらにその慰めは拡がって、自分が関わっている人たちに慰めを与えることに努めていくのです。お読みしました1節では、神さまが預言者イザヤに対して、慰めなさい、私の民を慰めなさい、と言われています。ここでは、神さまとイスラエルの民のことが言われていますが、新約の時代と言われる今、神さまと私たちのこととしてこの聖書の言葉を聴くことができます。
続く2節には、このような言葉が語られています。
40:2 エルサレムの心に語りかけ/彼女に呼びかけよ/苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた、と。罪のすべてに倍する報いを/主の御手から受けた、と。
「エルサレムの心に語りかけ」とあります。神さまは私たちの心に語りかけてくださるお方です。どうぞ、皆さん聖書の言葉を日々、お読みください。聖書の言葉を通して、神さまは私たちの心に語りかけてくださいます。この「エルサレムの心に語りかけ」という言葉は聖書協会共同訳では「エルサレムに優しく語りかけ」となっていました。慰めというのは、その人の心に優しく語りかけるものです。私たちも神さまがイザヤに言われたように、慰める者でありたいと思います。
さて、ここで神さまがイザヤに語られた慰めの内容はどのようなものかと言いますと、2節の後半にこのようにありました。「彼女に呼びかけよ/苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた、と。罪のすべてに倍する報いを/主の御手から受けた、と」。この言葉の背景ですが、イスラエルの民がバビロン捕囚により、囚われの身となっていたのが、解放され、イスラエルは回復するということが言われています。この2節の言葉の中には、「咎」と「罪」ということが言われていましたが、イスラエルの民の苦しみは罪、咎のゆえであった、ということです。しかし、その咎は償われ、罪に対して倍する報いを主のみ手から受けた、とあります。罪に対して倍する報いというのは、あなたがたの罪に対して、その倍の報いを受けた、ということです。報いと言うのは、良い報いと悪い報いがあります。良いことを行なえば、良い報いを受ける。悪いことを行なえば、悪い報いを受ける。私たちはそのように考えるかもしれませんが、ここには、あなたがたの咎と罪は償われ、倍の良い報いを受けることになった、と言われているのです。
ところで、一つ気になることがあります。誰がイスラエルの民のために償いをしたのか、ということです。誰でしょうか?そのことを考えながら、この後の言葉を読んでみましょう。
40:3 呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え/わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。
40:4 谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くせよ。険しい道は平らに、狭い道は広い谷となれ。
「呼びかける声」とありました。その声が言っていることは荒れ野や荒れ地を神さまのために整えて準備しなさい、ということです。荒れ野や荒れ地というのは、私たちの心、私たちの生き方を指して言っています。今、私たちはアドベントでクリスマスに備える日々を過ごしています。クリスマスには、私たちの家族が、友人が教会に来て欲しい、と祈っておられると思います。それはクリスマスを迎えるのにとても良い準備です。では、この聖書の言葉は何の準備のことを言っているでしょうか?そのことが9節以下に書かれています。
40:9 高い山に登れ/良い知らせをシオンに伝える者よ。力を振るって声をあげよ/良い知らせをエルサレムに伝える者よ。声をあげよ、恐れるな/ユダの町々に告げよ。見よ、あなたたちの神
40:10 見よ、主なる神。彼は力を帯びて来られ/御腕をもって統治される。見よ、主のかち得られたものは御もとに従い/主の働きの実りは御前を進む。
40:11 主は羊飼いとして群れを養い、御腕をもって集め/小羊をふところに抱き、その母を導いて行かれる。
なぜ、私たちは神さまのために自分の心、生き方を整えなければならないのか、準備しなければならないのか、というと、10節に「見よ、主なる神。彼は力を帯びて来られ」とありますように、神さまが来られるからです。神さまが来られる、神さまのみ子イエス・キリストが来られるからです。イエスさまが来られることについて、9節に、繰り返し、このようなことが言われていました。「良い知らせ」。イエスさまが私たちのところにおいでになる。このことこそは良い知らせ、グッド・ニュースです。
イザヤがこのことを預言したとき、イスラエルの民は私たちの罪と咎を償ってくださるメシア、救い主が来られるのだ、と待ち望みました。そして、今、私たちはその方が誰であるかを知っています。誰が私たちの罪と咎を償ってくださったでしょうか。イエス・キリスト、この方こそは救い主であり、私たちの罪と咎を償ってくださった方、私たちを罪から救い出し、永遠の命に生きる者としてくださったのです。
(むすび)
40:7 草は枯れ、花はしぼむ。主の風が吹きつけたのだ。この民は草に等しい。
40:8 草は枯れ、花はしぼむが/わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ。
「この民は草に等しい」とありますように、私たち人間は草のようなものです。永遠ではありません。草が枯れ、花がしぼむように、私たちもやがて肉体は弱り果て、死を迎えることになります。しかし、8節には、このような希望の言葉が語られています。「わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ」。神さまの言葉は永遠です。この神さまの言葉を信じて生きる者は永遠の命に生きるというのです。
今日の説教題は「まことの慰め」と付けました。まことの慰め、本当の慰め、それは何でしょうか?教会は慰めの共同体であると言いました。私たちはお互いに慰め合い、人を慰める者とされていると言いました。なぜ、そのような者とされたのか?というと、私たちには本当の慰め、神さまからの慰めを受けているからです。イエス・キリスト、この方こそは私たちを慰めてくださる方、私たちを愛し、活かし、私たちと共におられるお方です。そして、永遠の命を与えてくださるお方です。もう一度、神さまがイザヤに語った言葉をお読みして終わります。「高い山に登れ/良い知らせをシオンに伝える者よ。力を振るって声をあげよ/良い知らせをエルサレムに伝える者よ。声をあげよ、恐れるな/ユダの町々に告げよ。見よ、あなたたちの神」(9節)。良い知らせを告げていきましょう。
祈り
恵み深い主なる神さま
アドベントの時を過ごしています。私たちのまことの慰め、慰めの主が私たちのところにおいでくださったことを心から感謝します。
イスラエルの民の咎は償われ、その罪の倍の良い報いを受けたことが語られていましたが、私たちもイエス・キリストによって罪を償われ、倍の良い報い、救いが与えられ、永遠の命に生きる者とされたことを感謝します。
今、私たちは救い主がおいでくださったという良い知らせを告げるように召されています。私たちを用いてください。そして、イエスさまをお迎えする方がありますように。
私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン
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