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【礼拝説教】2022年1月23日「神の秘められた計画をゆだねられた管理者」

2022年 1月23日(日)(朝・夕)赤塚教会礼拝説教「神の秘められた計画をゆだねられた管理者」コリントの信徒への手紙一 4章1~5節

聖書―コリントの信徒への手紙一4章1~5節
(はじめに)
 今日の説教題を「神の秘められた計画をゆだねられた管理者」としました。この題名はお読みしました聖書の言葉、コリントの信徒への手紙一4章1節から取りました。ところで「神の秘められた計画」とは何でしょうか?別の聖書の訳では、「神の奥義」(口語訳、新改訳など)となっていました。「奥義」という方が直訳的ですが、私たちの教会で使用している新共同訳聖書では、意味が分かるようにと、「秘められた計画」と訳しています。神さまの秘められた計画、それは神さまがまだ私たちにすべてを明らかにしていないご計画、救いのご計画ということです。このご計画を実現するために、神さまは私たちを用いられるのです。ですから、「神の秘められた計画をゆだねられた管理者」とは、私たちのことです。私たちは神さまの救いのご計画のために励んでいくのです。

(聖書から)
 1、2節をお読みします。
4:1 こういうわけですから、人はわたしたちをキリストに仕える者、神の秘められた計画をゆだねられた管理者と考えるべきです。4:2 この場合、管理者に要求されるのは忠実であることです。
 使徒パウロは、このように語っています。「人はわたしたちをキリストに仕える者、神の秘められた計画をゆだねられた管理者と考えるべきです」。先ほど、神さまの秘められた計画をゆだねられた管理者ということについてお話ししましたが、このようにも語られていました。「キリストに仕える者」。私たちはキリストに仕える者です。
 イエスさまがご自分の弟子たちの足を洗われた、という場面が聖書の中にあります。これは過越祭の前のこと、つまり、イエスさまが十字架におかかりになる直前の話、最後の晩餐、主の晩餐と言われる場面でのことです(ヨハネ13章1~20節参照)。聖書の舞台であるユダヤでは、二千年ほど前の時代は、今で言うサンダルのようなものを履いていました。埃っぽい地域ですから、家に入ると、家の僕がその土埃にまみれた汚れた足を洗いました。ところが、この時にはイエスさまが弟子たちの足を洗われました。師であるイエスさまが弟子の足を洗うというのはどういうことでしょうか?イエスさまはそのことについて説明されました(ヨハネ13章14、15節)。
3:14 ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。13:15 わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。
 主が弟子たちの足を洗われた。この出来事のことを「洗足の木曜日」とも言います。受難週の時によく読まれる聖書の箇所です。主が汚れた足を洗われたことから、イエスさまが私たちの罪を洗い流されることを連想しますが、イエスさまはこのことを通して、互いに仕え合うことを示されました。互いに仕え合う生き方、それがイエスさまの教えに従う、イエスさまに仕えることの具体的な実践ということです。
 さて、神さまの救いのご計画をゆだねられた私たちですが、そういう私たちのことを「管理者」とパウロは言っています。管理者というと、例えば、マンションの管理人などが思い浮かびます。ある牧師先生は、私たちは神さまの家の管理人であるとか、ハウスキーパーである、と言っています。その管理者に求められることは何かというと、忠実であることです。私たちは神さまに対して、忠実であるように、ということが言われているのです。
 その話に続いて、3節以下に書かれていることは、まったく別の内容と思えるようなことです。人や神さまに裁かれるとか、裁かないとか、そういうことが書かれています。これはいったいどういうことなのでしょうか?ここで一つ言えることは、この手紙を書いたパウロという人は裁かれてきた人であるということです。裁かれてきた。どういうふうに裁かれてきたのか、というと、パウロはキリストの使徒であるとか、ないとか、いろいろと人々から批評されてきたのです。ある人たちからは、パウロという人は大変すぐれた人だ、キリストの使徒、弟子にふさわしい人だ、と言われました。その反対に、あのパウロという男はキリストの弟子としてふさわしい者ではない、と批判されることもありました。でも、パウロは1節に書いてあるように、自分はキリストに仕える者だ、神さまの救いのご計画をゆだねられた管理者だ、と言って、その確信は揺らぐことがありませんでした。
 私たちはどうでしょうか?人から批評されることもあるでしょうし、自分でも、自分はキリストの弟子としてふさわしくない、ダメだ・・・。そういうつぶやきが出てくることがあるかもしれません。私たちもそのようにして、人に裁かれたり、また人を裁いたりしてきた者なのではないでしょうか?そのことをふまえた上で次の3節以下を読んでみましょう。
4:3 わたしにとっては、あなたがたから裁かれようと、人間の法廷で裁かれようと、少しも問題ではありません。わたしは、自分で自分を裁くことすらしません。4:4 自分には何もやましいところはないが、それでわたしが義とされているわけではありません。わたしを裁くのは主なのです。
 お話ししましたように、パウロは神さまからゆだねられた福音を伝えることに励んだ人でしたが、キリストの弟子としてふさわしいとか、ふさわしくないとか、いろいろな批評、裁きを人々から受けてきた人でした。そのパウロがこのように言っているのです。「わたしにとっては、あなたがたから裁かれようと、人間の法廷で裁かれようと、少しも問題ではありません。わたしは、自分で自分を裁くことすらしません」。あなたがたが私について、いろいろなことを言っているけれども、まったく問題ではない。また、私は自分のことも裁くことはしない。自分はキリストの弟子としてふさわしくない、ダメな人間だ、などとも言わない、というのです。
 さらに続いて、「自分には何もやましいところはないが、それでわたしが義とされているわけではありません。わたしを裁くのは主なのです」と言います。私自身、何らやましいことはないが、それで私が正しいというわけでもない。なぜ、そのように言うのかというと、「わたしを裁くのは主なのです」というのです。パウロは本当の裁き手が誰であるかを知っていた、信じていたのです。ある人はこのことについて、こう言っています。神さまが真の裁き手であるのに、私たち人間が他人のことや自分のことを裁くなら、それは神さまに対して、「越権行為」を犯すことになる、というのです。越権行為、自分にはその権利がないのに、権限がないのに、それを越えるようなことをしている。そして、それこそが神さまに対する罪なのだ、というのです。
 私はダメな人間だ!私たちは何か失敗したり、罪を犯したりすると、このような言葉が口から出て来ます。しかし、これも神さまに対する越権行為です。自分がダメなのか、ダメじゃないのか、それを決めるのは自分ではありません。また他人でもありません。それを決めることができるお方はただお一人、神さまだけなのです。
 「わたしは、自分で自分を裁くことすらしません」、「わたしを裁くのは主なのです」。他人を裁きそうになる時、自分を裁きそうになる時、この言葉を思い起こしたいと思います。そして、本当の裁き手は神さまですから、その裁く心を神さまにゆだねていきましょう。神さまのご判断、神さまの決定、そこにゆだねていきましょう。

(むすび)
 5節の言葉をお読みします。
4:5 ですから、主が来られるまでは、先走って何も裁いてはいけません。主は闇の中に隠されている秘密を明るみに出し、人の心の企てをも明らかにされます。そのとき、おのおのは神からおほめにあずかります。
 主が来られるまで、主の日まで、私たちは神さまを差し置いて、先走って裁くようなことをしてはいけない、というのです。ここにはこのようなことも書かれています。「主は闇の中に隠されている秘密を明るみに出し、人の心の企てをも明らかにされます」。神さまはすべてをご存じの方です。私たちの隠されている罪もすべて明らかにされるということでしょうか?それは私たちにとって大変恐ろしいことです。この言葉の後には、私たちの罪のすべてが明らかにされ、私たちは神さまから厳しい裁きを受けるでしょう、と続けられているのでしょうか?この後の言葉をもう一度読んでみます。
 「そのとき、おのおのは神からおほめにあずかります」。これは何とも不思議な言葉です。神さまは私たちのすべてを知っておられますから、もう後は裁きしかない!そう思われる方があるかもしれませんが、ここに書かれているのは、「そのとき、おのおのは神からおほめにあずかります」、別の訳では「その時それぞれに、賞賛が、神から与えられるであろう」(岩波訳)とあります。何と、裁きではなく、おほめにあずかる、賞賛が与えられる、というのです。
 なぜ、神さまは、私たちに対して、裁き、叱責ではなく、賞賛をお与えになるのでしょう?その理由は、イエスさまの十字架です。イエスさまが私たちを罪から救うために十字架にかかってくださった。それは私たちが裁かれないため、私たちが神さまの救いにあずかるためです。そのことが書かれている聖書の言葉をお読みします。
3:16 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。3:17 神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。
 私たちは罪深い者です。私たちの罪はどれだけ大きなものでしょうか。しかし、神さまの愛と赦しは私たちの罪の深さ、大きさよりもはるかに深く、大きいのです。このことをおぼえて、こんな私を救い、賞賛を与えてくださるという驚きの福音。福音とは良い知らせということですから、まさにこれは私たちにとって良い知らせです。このことを喜び、感謝して、この良い知らせをお伝えしていきましょう。また、この救いの恵みに応えていきましょう。

祈り
恵み深い主なる神さま
 私たちは裁きの中に生きています。他人に裁かれたり、他人を裁いたり、自分をも裁いてしまう。そういう私たちに、神さまこそは本当の裁き手であることを聖書は語ります。
 主の日のことが書かれていました。その日には、すべてが明らかになります。私たちの隠されていた罪も明らかにされます。それは私たちにとっては、恐ろしい日のように思えます。
 しかし、このように書かれていました。「そのとき、おのおのは神からおほめにあずかります」。なぜ、このように語られているのかというと、主の十字架のゆえです。主が私たちを罪から救い出してくださるからです。
主の日は、私たちのすべての罪が明らかになる日であり、またすべての罪から救い出されたことが明らかになる日であると信じます。どうか、この恵みを一人でも多くの方が知り、あずかることができますように。
私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン

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