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【礼拝説教】2022年3月13日「ほむべき方の子メシア」

聖書―マルコによる福音書14章53~65節
(はじめに)
 先日、私がデボーション(黙想とも言いますが)を行っている時、聖書と一緒に読む本の中に、「信仰とは出エジプトのことである」という言葉がありました。出エジプトとは、イスラエルの民がエジプトで奴隷として、重労働を強いられていた時、神さまがモーセをイスラエルの指導者として遣わし、モーセと共にイスラエルの民はエジプトを脱出した、という出来事です。しかし、それは簡単なものではありませんでした。何度も、エジプトの王ファラオの変心、そして、その軍隊に追われるようなことがありました。またイスラエルの民自身の神さまに対する信仰が揺らいでしまうということもありました。外部からも、内部からも、試練があり、大変長い時間をかけての旅路でした。
 私は、「信仰とは出エジプトのこと」、この言葉から、エジプトを脱出するというのは、私たちにとっては、罪からの脱出のことであると思いました。罪からの脱出、罪に支配された古い生活からの脱出。それは私たち自身の力でできるものではありません。モーセとイスラエルの民も、自分たちの力でエジプトを脱出できたわけではありませんでした。それができたのは、神さまの力によることでした。神さまがエジプトから脱出できるように導いてくださった。それと同じように、神さまが私たちを罪から脱出できるように導いてくださったのです。

(聖書から)
 先週お読みしました聖書の中に、イエスさまのこのような言葉がありました。「聖書の言葉が実現するため」(49節)。このことについて、私は、これは神さまの救いのご計画が実現するため、と言っても差し支えない、と言いました。神さまの救い、それは先ほどお話ししました罪からの脱出のことです。罪からの脱出こそが神さまが私たちに与えてくださった救いなのです。神さまは私たちを罪から救うために、どのようなことをなさったのか。そのことが今日の聖書にも書かれていました。
14:53 人々は、イエスを大祭司のところへ連れて行った。祭司長、長老、律法学者たちが皆、集まって来た。14:54 ペトロは遠く離れてイエスに従い、大祭司の屋敷の中庭まで入って、下役たちと一緒に座って、火にあたっていた。14:55 祭司長たちと最高法院の全員は、死刑にするためイエスにとって不利な証言を求めたが、得られなかった。14:56 多くの者がイエスに不利な偽証をしたが、その証言は食い違っていたからである。
 イエスさまは祭司長、律法学者、長老たちの遣わした群衆によって捕らえられ、大祭司のところへ連れて行かれました。当時の大祭司は別の福音書によると、カイアファという人でした(マタイ26章57節)。サンヘドリン(最高法院)は夜の時間は閉鎖されていたため、大祭司の邸宅でイエスさまについての裁判が行われました。54節をご覧いただきますと、ペトロのことが書かれています。ペトロについて、「ペトロは遠く離れてイエスに従い、大祭司の屋敷の中庭まで入って、下役たちと一緒に座って、火にあたっていた」とあります。ペトロも他の弟子たちも、イエスさまが捕らえられた時には逃げてしまったはずです(50節)。ところが、ここには「ペトロは遠く離れてイエスに従い」とあります。ペトロがイエスさまに従っていると書いてあるのです。しかし、「遠く離れて」ともあります。遠く離れて従うとは何でしょうか。
 もしかすると、遠く離れて従う、という従い方、信仰というものがあるのかもしれません。しかし、この時のペトロは距離的に遠く離れていた、ということだけでなく、イエスさまがこれからなさろうとされる神さまの救いのご計画を理解できないままでいましたから、そのことも表しているのかもしれません。私たちはどうでしょうか。私はイエスさまに従っている。自分ではそう思っていても、イエスさまが願っておられることに向かっているのか、そのことをみ言葉に聴きながら、自問自答することは必要なことだと思います。
 イエスさまを罪に定め、死刑にしようと考えていた人たちでしたが、証言の食い違いが見られた、ということです。そこで数人の人たちが証言します。
14:57 すると、数人の者が立ち上がって、イエスに不利な偽証をした。14:58 「この男が、『わたしは人間の手で造ったこの神殿を打ち倒し、三日あれば、手で造らない別の神殿を建ててみせる』と言うのを、わたしたちは聞きました。」14:59 しかし、この場合も、彼らの証言は食い違った。
 この人たちについて、「イエスに不利な偽証をした」とした、とあります。偽証とあります。本当ではないことを言った、というのです。ところで、神殿の話について、イエスさまが語られている聖書の箇所があります(ヨハネ2章18~21節)。
2:18 ユダヤ人たちはイエスに、「あなたは、こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか」と言った。2:19 イエスは答えて言われた。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」2:20 それでユダヤ人たちは、「この神殿は建てるのに四十六年もかかったのに、あなたは三日で建て直すのか」と言った。2:21 イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである。
 これは宮清めと言われる聖書の箇所です。神殿に多くの商人がやって来て、商売を行っていた。その様子をご覧になったイエスさまは商人たちを追い出された、という内容です。この時、イエスさまは神殿を壊してみよ、三日で建て直してみせる、と言われました。このイエスさまの言葉の意味がここに書かれています。「イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである」。
神殿は神さまを礼拝する大切な場所でした。その神殿もいつの日かは壊れる時が来る。けれども、イエスさまが十字架にかかって死なれ、三日目に復活することによって、新しい神殿が建つ。それは何かというと、「御自分の体のこと」とありました。イエスさまの体、教会のことです。新しい神殿である教会が建つと言われたのです。今、私たちは教会、キリストの体とされていることをおぼえたいと思います。
今日の聖書に戻ります。大祭司がイエスさまに尋ねています。
14:60 そこで、大祭司は立ち上がり、真ん中に進み出て、イエスに尋ねた。「何も答えないのか、この者たちがお前に不利な証言をしているが、どうなのか。」14:61 しかし、イエスは黙り続け何もお答えにならなかった。そこで、重ねて大祭司は尋ね、「お前はほむべき方の子、メシアなのか」と言った。14:62 イエスは言われた。
「そうです。あなたたちは、人の子が全能の神の右に座り、/天の雲に囲まれて来るのを見る。」
 イエスさまはこれまでの証言については、何もお答えになりませんでした。それが偽証、偽りの証言であったことが分かっていたからでしょう。しかし、大祭司から、「お前はほむべき方の子、メシアなのか」と尋ねられた時、初めて口を開き、このようにお答えになりました。「そうです。あなたたちは、人の子が全能の神の右に座り、/天の雲に囲まれて来るのを見る」。
 大祭司の尋ねたこと、それは、「ほむべき方の子、メシアなのか」ということでした。これは、あなたが神の子であるメシア、救い主なのか?という問いでした。このことに対して、主は「そうです」とはっきりお答えになりました。そして、「あなたたちは、人の子が全能の神の右に座り、/天の雲に囲まれて来るのを見る」と言われました。
 イエスさまが言われたこと、それは人の子、これはイエスさまご自身のことです。イエスさまは神の子でありながら、人としてこの世においでになりました。そのことを「人の子」と言うのです。フィリピの信徒への手紙に、神でありながら人として来られたイエスさまのことが書かれています(フィリピ2章6~8節)。
2:6 キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、2:7 かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、2:8 へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。
 人の子としてこの世に来られ、私たちのために十字架にかけられ、死なれた方は三日目に復活され、そして、終わりの日、神さまの救いの完成の日に、再びおいでになるのです。イエスさまは、あなたがたはそのことを見るだろう、と言われたのです。

(むすび)
 主が再び来られる。このことを聞いた人たちは、それを聞いて喜んだでしょうか?いいえ、彼らは、イエスさまを救い主とは信じていませんでした。むしろ、彼らは、イエスという男はこのようなことを言って、神殿を冒涜し、神さまを冒涜した、と言ったのです(63~65節)。そして、主を罵り、ついには死刑にすべきと決議したのです。
 ある牧師先生は、この時のユダヤの最高法院の人たちとイエスさまは救いの物差しが違っていた、と言われました。ユダヤの最高法院の人たちは、イエスさまを救い主とは信じませんでした。イエスさまの言われる、イエスさまのなされる救いを理解しませんでした。救いを別のことと考えていたのです。救いの物差しが違っていた。私たちもそういうことがあると思うのです。私たちも人によって救いとは何か、というと、救いの物差し、基準が異なったりします。ある人にとっては、自分の生活が潤うこと、経済的に潤うことが救いと考えます。またある人にとっては、病気が癒やされることが救いと考えます。自分が願っていることが叶わなかった。そんな神さまは神さまではない。そんな救いは救いではない。そう言って、教会を去って行く人もいます。
私は十年前の病気の後遺症で手の指先の動きが今でもよくありません。細かい手作業がなかなかうまくできません。これが完全に治ったらいいなあ、と願っています。すると、手の指の状態が元に戻ること、完全に治ることが救いであると考えてしまったりするわけです。しかし、聖書が教える、イエスさまが示される救いはそれとは違います。もちろん、神さまは私たちの生活、健康についても、かえりみてくださいます、必要な助けを与えてくださいます。イエスさまは主の祈りで「わたしたちに必要な糧を今日与えてください」(マタイ6章11節)と祈るように教えておられますから、私たちの生活のこと、健康のことなど、具体的に祈っていきたいと思います。必要なものが備えられるように、癒やされるように、祈っていきたいと思います。けれども、救いとは、罪からの救いのことです。神さまは、ご自分の大切なみ子であるイエス・キリストを遣わされました。主は十字架におかかりになり、ご自分の命をささげられました。そして、三日目に復活され、罪と死に勝利されました。この救いのみわざによって、私たちを罪の支配から救い出し、永遠の命に生きる者にしてくださいました。救われた私たちは、神さまのみ心を求めて生きるように、神さまの愛と義に生きるように導かれているのです。

祈り
恵み深い主なる神さま
 あなたが私たちを救うためにこの世にお遣わしくださった方、イエス・キリストの十字架の道へと歩む様子を今日も、聖書から教えていただき、ありがとうございました。
 主は大祭司の尋問に答えられました。「あなたたちは、人の子が全能の神の右に座り、/天の雲に囲まれて来るのを見る」。しかし、まことの救いを知らない人たちは、これを、神を冒涜する言葉であると聞きました。しかし、私たちは、この言葉を聞き、イエス・キリストが再びおいでになり、救いの完成が訪れる。そのことを知らされて感謝します。
 聖書が教える、このまことの救いを一人でも多くの人たちが知り、信じ、受け取って、罪の支配から、神さまの愛と義に支配されて生きる者となりますように導いてください。
私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン

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