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【礼拝説教】2022年4月17日「私たちの心は燃えていたではないか」

2022年4月17日(日)(朝・夕)赤塚教会礼拝説教「私たちの心は燃えていたではないか」ルカによる福音書24章13~35節

聖書―ルカによる福音書24章13~35節
(はじめに)
 イエスさまの復活をお祝いするイースター礼拝を迎えました。イースターおめでとうございます!
 私は牧師の家庭に生まれ育ちました。子供の時は、教会学校でイースターのカードやイースターエッグ、卵がプレゼントされました。それで私はイースターというと、すぐに卵が思い浮かぶのですが、なぜ、イースターでは卵を配るのでしょう?卵、それは新しく生まれること、新しい命を意味します。
先週は受難週の時を過ごしました。受難週のことが書いてある聖書の箇所を読んで過ごされた方がおられたと思います。イエスさまは十字架におかかりになり、私たちの罪のために死んでくださいました。イエスさまは死んで墓に葬られましたが、三日目に復活されました。復活されたのは日曜日の朝でした。それから、キリスト教会はイエスさまが復活した記念日として、日曜日に礼拝するようになりました。
イエスさまが復活された。それはイエスさまが私たちの罪、そして、死に勝利されたことを意味します。イエスさまの十字架と復活を信じる人は、イエスさまと一緒に永遠の命に生きる者とされる。それが、聖書が私たちに約束していることです。新しい命とは、イエスさまと一緒に永遠の命に生きるということです。

(聖書から)
 今日お読みしました聖書の言葉はルカによる福音書24章13節からでした。この箇所には、二人の弟子のことが書かれています。この人たちもイエスさまの弟子でした。彼らがエルサレムからエマオという村へ向かっていく途中の話が書かれています。彼らは何か話をしながら歩いていました。その箇所を読んでみます。
24:13 ちょうどこの日、二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、24:14 この一切の出来事について話し合っていた。24:15 話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。
「この一切の出来事」というのは、イエスさまが十字架にかかって死なれたこと、そのイエスさまが復活されたということです。そのことについて、「話し合い論じ合って」とあります。イエスさまは十字架にかかって死なれた。でも、復活されたという話もある。果たしてそれは本当なのか?嘘なのか?どうなのだろう、と二人で一生懸命、議論していたようです。そうしたところ、そこにイエスさまご自身が近づいてきて、一緒に歩き始めた、というのです。
イエスさまは復活されたかどうか?議論していた弟子たちでした。そこにその話の当事者であるイエスさまが近づいてきました。弟子たちは、ああ、イエスさまだ!確かにイエスさまはここにおられる!と言ったのでしょうか?いいえ、そういう反応、驚きはありませんでした。16節をご覧ください。
24:16 しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。
 イエスさまが近づいてこられ、一緒に歩いているのに、その方がイエスさまだとは、二人とも分からなかった、気づかなかった、というのです。その理由について、このように書いてあります。「しかし、二人の目は遮られていて」。ここで「目」というのは、「心の目」と言ったらよいかと思います。あるいは「信仰の目」と言ったらよいでしょうか。彼らはもうイエスさまは死んでしまった。その方がここにおいでになるはずがない。そう思い込んでいたのではないでしょうか。だから、イエスさまが一緒におられるのに分からなかったのです。
イエスさまは彼らに質問をしています。
24:17 イエスは、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と言われた。二人は暗い顔をして立ち止まった。
 この時の二人の表情が書かれています。「二人は暗い顔をして立ち止まった」。彼らは暗い顔をしていた、というのです。それは希望のない、喜びのない表情でした。
24:18 その一人のクレオパという人が答えた。「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか。」24:19 イエスが、「どんなことですか」と言われると、二人は言った。「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。
 イエスさまはご自分のことを気づいていない二人に何を話しているのですか?と再び尋ねています。彼らはイエスさまのことを話しているのです、と答えました。この後、この弟子たちはイエスさまが十字架にかかって死なれたこと、死んだはずのイエスさまが生きておられる、と天使が告げたことをイエスさまに話しています。
 この二人の弟子はイエスさまの十字架と復活について、聞いていましたが、イエスさまが復活したことは信じられなかったのです。主は彼らにこう言われました。
24:25 そこで、イエスは言われた。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、24:26 メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」24:27 そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。
 イエスさまは弟子たちに「物分かりが悪く、心が鈍く」と言われました。先ほど、弟子たちがそこにおられるのがイエスさまであることが分からなかったのは、二人の目が遮られていたため、とありました。目が遮られている。物わかりが悪く、心が鈍い・・・。私はこの二人の弟子というのは、私たちのように思えてなりません。私たちもイエスさまを信じている、と言いながら、心の目が遮られ、物わかり悪くなり、心が鈍くなり、ということが度々あるのではないでしょうか。
私は主が求めておられる生き方をしているだろうか?いったい自分はどこに向かっているのだろうか?とハッとさせられることがあるのではないでしょうか。悔い改めとは、方向転換ということです。私たち人間はすぐに自分中心の考えに進んでしまいます。それが罪ということです。そこから神さまの方へと方向転換していく。それが悔い改めです。私たちの歩みは毎日が悔い改めです。27節にイエスさまが「そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された」とありますが、いつもイエスさまからの語りかけを聞くことが大事です。イエスさまの言葉を聞いて、日々方向転換していくのです。
28節には「一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった」とあります。一行というのは、二人の弟子のことです。彼らにとっては「目指す村」とありますように、エマオの村が目的地でした。でも、イエスさまは違いました。「イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった」とあります。この弟子たちとイエスさまとでは、目的地が違っていたのです。私たちもこのようなことがあるのではないでしょうか。私たちもイエスさまと違う方向に行くことがないように気をつけなければなりません。
彼らはさらにイエスさまの言葉を求めました。そのことが29節以下に書かれています。
24:29 二人が、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた。24:30 一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。24:31 すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。24:32 二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。
 イエスさまの言葉を聞き、イエスさまと食事を共にした時、彼らはそこにおられるのがイエスさまであると分かった、というのです。この弟子たちがイエスさまの言葉だけでなく、食事を共にした時にイエスさまだと分かった、と書いてあることが興味深いことです。イエスさまの言葉、そして、イエスさまと食事を共にする、というのは、生活ということです。イエスさまの言葉、イエスさまと共に歩む生活、そこで見えてくること、気づかされることがあるのではないでしょうか。
 そこにおられる方がイエスさまだと分かった途端に、イエスさまの姿が見えなくなった。それは彼らに復活の信仰が与えられた、ということです。主は見ないで信じる信仰を求められました。イエスさまの十字架の傷跡を見なければ、触れなければ、私は信じません!とイエスさまの弟子の一人であるトマスは言いました。そのトマスに対して、復活の主は出会ってくださり、彼にこう言われました。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」(ヨハネ20章29節)。

(むすび)
「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」。二人の弟子は主が自分たちに語られた時、自分たちの心は燃えていた、と言いました。この「説明してくださった」という言葉、「説き明かしながら」(聖書協会共同訳)とも訳されています。この言葉は「開いて中味を示す」という意味だそうです。イエスさまが語られる時、み言葉は開かれ、その中身が示されるのです。そればかりか、聞く者の心も開かれ、その心の奥底に言葉が臨むのです。神さまの言葉を聞く時、私たち自身の心が神さまに開かれること、向けられることが大事です。その時、私たちの心が燃やされるのです。本当のことが分かる喜び、命の言葉を知る恵み、み言葉に生かされる体験をすることができるのです。
33節以下をお読みします。
24:33 そして、時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、24:34 本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた。24:35 二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。
復活を信じられなかった弟子たちが復活を信じて、分かち合っている様子が書かれています。納得したから、悟ったから・・・。そういうものではありません。主が語られると、主に出会うと、人は変えられるのです。信じない者から信じる者へと変えられ、永遠の命に生きる者とされるのです。

祈り
恵み深い主なる神さま
 イエス・キリストの復活を心から感謝します。
 あなたの救いのご計画により、み子イエスさまはこの世に送られ、十字架におかかりになり、死なれ、葬られ、三日目に復活されました。
 復活が信じられず、暗い顔をして歩いていた弟子たちと主は一緒に歩いてくださり、語りかけてくださり、彼らは少しずつ、主に心を開き、そこにおられる方こそは主であると気づかされ、ついには復活の主を信じ、人々にもこの方を伝える者とされました。
 復活は、罪と死に勝利されたこと、主を信じる者は永遠の命に生きることを示します。どうか、新たに主の言葉を聞き、主に出会い、永遠の命に生きる人がありますように導いてください。復活の信仰を与えられた私たちをこのことのために用いてください。
私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン

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