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【礼拝説教】2022年5月8日「これは私の愛する子」

聖書―マタイによる福音書3章13~17節
(はじめに)
 洗礼者ヨハネ(バプテスマのヨハネ)は、人々に悔い改めのバプテスマを宣べ伝えました。このヨハネという人については、旧約聖書のイザヤ書で預言されていた人物だった、と書かれていました。悔い改めというのは、方向を転換する、向きを変える、ということです。ヨハネは、人々に自分の方ばかり見ていないで、神さまの方を見ていきましょう!と言ったのです。自分のことばかり考えて生きるのではなく、神さまのことを考えて生きていこう、ということです。
 ヨハネは、自分の後においでになる方は、聖霊と火であなたたちにバプテスマを授けられます、と言いました。それは、私たちが新しく生きていくことができるようにしてくださる、ということです。聖書で罪というのは、先ほど言いましたように、自分の方ばかり見ている生き方、自分のことばかり考えて生きることです。私たちが一生懸命、そういう生き方は違うんだ、といって、自分の力で頑張って、努力して、そうじゃない生き方を目指しても、それはなかなかできるものではないのです。ヨハネの後からおいでになる方、イエスさまが一緒に歩んでくださる時、イエスさまが私たちに新しく生きる力を与えてくださいます。ヨハネは人々にそのことを伝えたのです。
 ところで、神さまの方を見て、神さまのことを考えて生きる、というのは、どういうことでしょう?一つの聖書の言葉をお読みします(一ヨハネ4章20、21節)。
4:20 「神を愛している」と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません。4:21 神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです。これが、神から受けた掟です。
 ここに、神さまを愛する人は、目に見える兄弟を愛するべきです、とあります。神さまを愛する、ということと、人を愛するというのは、別々のことではありません。同じことなのです。この言葉を心に留めながら、今週も歩んで行けたらと思います。

(聖書から)
今日の聖書箇所は、マタイによる福音書3章13節からです。この箇所では、ヨハネが私の後からおいでになる方、イエスさまが出てきます。13節をお読みします。
3:13 そのとき、イエスが、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところへ来られた。彼から洗礼(バプテスマ)を受けるためである。
 イエスさまがヨハネのところに来られました。イエスさまはヨハネからバプテスマを受けるために来られた、ということです。すると、ヨハネは戸惑います。そのことが次の14節に書かれています。
3:14 ところが、ヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った。「わたしこそ、あなたから洗礼(バプテスマ)を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。」
 ヨハネは、イエスさまがバプテスマを受けようとされたことを思いとどまらせようとして、こう言います。イエスさま、あなたではなく、私こそ、あなたからバプテスマを受けるべきなのです。先週お読みしましたように、ヨハネという人は、ユダヤの人々に悔い改めのバプテスマを宣べ伝えました。あなたがたは、自分が「アブラハムの子孫」だ、と思ってはならない、と言いました。自分の先祖がアブラハムという立派な信仰の人であることを誇るだけではいけない、自分自身が神さまを信じることが大事だ、と言ったのです。
 そんな厳しいメッセージを語ったヨハネでしたが、イエスさまに出会って、「私こそ、あなたからバプテスマを受けるべき者です」と言いました。ヨハネは人々に対して、悔い改めるように、語りましたが、自分も悔い改めなければならない、罪のある者という自覚があったのです。このことは私たちも学ぶべきです。自分がイエスさまを信じて、クリスチャンになった。でも、罪のない人間になったわけではありません。イエスさまによって、罪を赦され、罪に支配されないで生きていけるようになった、という恵みをいただきましたが、赦された罪人なのです。クリスチャンではない人に対して、何も誇ることはできないのです。
 さて、イエスさまは、ヨハネの言葉を聞いて、どうされたでしょうか。15節をお読みします。
3:15 しかし、イエスはお答えになった。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」そこで、ヨハネはイエスの言われるとおりにした。
 イエスさまは、ヨハネにこう言いました。ご自分がバプテスマを受けることを止めないでほしい、と言われました。そして、こうも言われました。「正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです」。イエスさまは、「正しいこと」と言われました。イエスさまは神の子、救い主なのに、まったく罪のないお方なのに、悔い改めのバプテスマを受けるというのは、ヨハネにとっては受け入れがたいことでした。でも、イエスさまはそれを「正しいこと」と言われました。
 この「正しいこと」というのは、神さまの目に正しいことということです。神さまのみ心に適ったことということです。もっと言うと、神さまの救いのご計画の一つということです。悔い改めのバプテスマ、それは私たち人間が受けるべきものです。私たち人間が罪を悔い改めて、神さまに従って行くため、神さまを愛するためにすることです。
 繰り返しますけれど、イエスさまは神の子、救い主ですから、罪はありません。悔い改める必要もありません。それなのに、ヨハネから悔い改めのバプテスマを受けようとされた。それは、イエスさまが私たち人間の側に立たれた。私たち罪人の中に来られた、ということなのです。
 コリントの信徒への手紙二5章21節にこのような言葉があります。
5:21 罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです。
 罪のないお方が罪深い私たちのところにおいでになり、私たちの罪の身代わりとなってくださいました。そのことによって、私たちは罪を赦されたのです。
 イエスさまが言われた言葉を聞いたヨハネはどうしたでしょうか。「そこで、ヨハネはイエスの言われるとおりにした」とあります。ヨハネは自分がイエスさまにバプテスマを授けるなんて、そんなことできません。むしろ、私こそ、あなたからバプテスマを受けるべきです、と言いました。ヨハネの言っていることも間違いではないと思います。自分のことをよく分かっていて、そう言ったのでしょう。しかし、ヨハネはイエスさまの言われたことに従いました。それは自分が理解できたから、納得できたから、ということではありませんでした。イエスさまが言われたから。これはヨハネのイエスさまに対する信仰です。あなたの言われることに信頼します、従います。そして、ヨハネはイエスさまにバプテスマを授けたのです。

(むすび)
 イエスさまは、ヨハネからバプテスマをお受けになりました。その時のことがこのように書かれています。
3:16 イエスは洗礼(バプテスマ)を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。3:17 そのとき、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う声が、天から聞こえた。
 「神の霊」、聖霊のことです。聖霊がイエスさまの上に降ってきた、ということです。イエスさまは聖霊に満たされた方です。そして、天から声が聞こえました。それは神さまの声です。「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」。神さまは、イエスさまのことを「わたしの愛する子」と言われ、「わたしの心に適う者」とも言われました。イエスさまは神さまのみ子であり、神さまのみ心に適うお方です。私たちが神さまを知るためには、そのみ子であるイエスさまを通して知るのです。私たちもイエスさまと一緒に歩む時、この言葉を私たちに対する神さまの語りかけとして聴くことができるのです。「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」。イエスさまと一緒に歩んでいきましょう。

祈り
恵み深い主なる神さま
 イエスさまは、バプテスマのヨハネから、悔い改めのバプテスマをお受けになりました。イエスさまは神の子であり、救い主ですから、悔い改める必要はありませんでした。それなのに、バプテスマをお受けになりました。それは、主は私たち人間、罪人の中に立たれた、一緒に生きられたことを示します。そして、主は私たちの罪のために十字架におかかりになりました。
「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と神さまはイエスさまに言われました。私たちが神さまの愛する子、神さまのみ心に適う方、イエスさまと一緒に歩むことができますように導いてください。
私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン

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