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【週報巻頭言】2022年7月10日 キリストの奴隷として生きる(一コリント7章17~24節)

召されたときに奴隷であった人も、そのことを気にしてはいけません。自由の身になることができるとしても、むしろそのままでいなさい。(一コリント7章21節)

この「むしろそのままでいなさい」という言葉は議論のあるところです。奴隷が自由の身になることができても、奴隷のままでいなさい、と言っているようですが、別の訳では、このようになっています。「召されたとき奴隷であっても、それを気にしないがよい。しかし、もし自由の身になりうるなら、むしろ自由になりなさい」(口語訳)。口語訳聖書では反対の意味で訳されています。自由の身になることができるのなら、自由になったらよい。しかし、この「むしろそのままでいなさい」という言葉はもっと直訳的に訳すなら、「むしろ用いるがよい」(田川建三訳)、「むしろ〔神の召しそのものは大切に〕用いなさい」(岩波訳)となります。岩波訳は「用いなさい」だけだと意味が分からないために、補足説明を入れて「〔神の召しそのものは大切に〕用いなさい」と訳しています。つまり、ここで言われていることは奴隷が自由になったとしても、またそのままでいても、神さまの召し、神さまが私たちを救い、ご自分の働きのために召してくださったこと、このことを大切にするように、と言ったのです。

奴隷ということでは、パウロはさらにこのようなことも言っています。

というのは、主によって召された奴隷は、主によって自由の身にされた者だからです。同様に、主によって召された自由な身分の者は、キリストの奴隷なのです。あなたがたは、身代金を払って買い取られたのです。人の奴隷となってはいけません。(一コリント7章22、23節)

奴隷の話から、キリストの奴隷の話になっています。ここで言われていることは、私たちは人の奴隷になってはいけない、ということです。人の奴隷というと、私たちは人を自分の奴隷にしようとしたり、自分が人の奴隷になったりすることがあります。言い換えますと、人を支配しようとしたり、人に支配されたりします。しかし、私たちの人間関係はそういうものであってはならないというのです。私たちはみんな主によって自由にされた者であり、主の奴隷なのです。

「主によって自由にされた者であり、主の奴隷」というと、矛盾しているような言葉ですが、私たちはイエス・キリストの十字架の救いによって、罪の奴隷、罪に支配されていたところから、解放され、自由とされました。その自由をどうするか、というと、自分で主に従うことを選び取っていくのです。主に従うというのは、誰かに無理やり、強いられて、というものではありません。自分の意志で主に従っていくのです。もっと言いますと、「恵みの強制」によって主に従っていくのです。「恵みの強制」、それは、神さまの救いの恵みに押し出されて、促されて主に従っていく、ということです。私は神さまによって救われた。この恵みに感謝して応えていこう、主に従っていこう!それがキリストの奴隷ということです。

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