【礼拝説教】2022年7月10日「幸いな人」
聖書―マタイによる福音書5章1~12節
(はじめに)
今日の説教題を「幸いな人」と付けました。「幸いな人」。誰が幸いな人でしょうか。そのことがお読みしました聖書の言葉の中に書かれています。
今日お読みしましたマタイによる福音書5章から7章までをイエスさまの「山上の説教」と言います。イエスさまが山の上で説教、神さまの言葉を語られたからです。1節を読んでみます。
5:1 イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。
イエスさまは群衆を見て、山に登られました。その群衆というのは、どういう人たちだったでしょうか。今日お読みした聖書箇所の少し前のところ、マタイによる福音書4章24、25節にこのようなことが書かれていました。「人々がイエスのところへ、いろいろな病気や苦しみに悩む者、悪霊に取りつかれた者、てんかんの者、中風の者など、あらゆる病人を連れて来たので、これらの人々をいやされた。こうして、ガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤ、ヨルダン川の向こう側から、大勢の群衆が来てイエスに従った」。
イエスさまのところに大勢の群衆が来て、イエスさまに従った、とありました。イエスさまはその人たちをご覧になりました。弟子たちが近くに寄ってきました。すると、イエスさまは「口を開き、教えられた」とあります。イエスさまはご自分のもとに来られ、神さまの言葉を求める人たちに教えられたのです。
私たちもこの日曜日の礼拝、そして、日々の生活の中でも、イエスさまのもとに行き、イエスさまに神さまの言葉を与えてください、と求めることは大事なことです。求めるならば、イエスさまは私たちに神さまの言葉を語ってくださいます。
(聖書から)
3節から、幸いのメッセージが語られています。まず、3節をお読みします。
5:3 「心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。
幸いな人、いったいどのような人が幸いなのでしょう。ここには「心の貧しい人々は、幸いである」と語られています。「心の貧しい人々」と聞くと、皆さんはどんなことを考えるでしょうか。おそらくあまり良いイメージはないと思います。貧しい心、それは例えば、愛が乏しい、とか、人のことを思いやる気持ちが足りないとか、考えるのではないでしょうか。そういう人のことをイエスさまは、幸いと言われます。なぜ、幸いなのでしょうか?
この「心の貧しい」という言葉ですが、「心」というのは、「霊」という言葉でも訳すことのできる言葉です。「霊」、それは神さまとの関係ということです。神さまとの関係において貧しい。私たちが神さまに祈るとき、神さまの言葉に耳を傾けるとき、それが神さまとの関係に生きているということです。そして、そこで気づかされることは、自分の貧しさです。神さまの前に立つとき、私たちは自分の本当の姿を知らされます。ああ、自分は何と愛の乏しい者だろうか。自分のことばかりしか考えられない者だろうか、と自分の貧しさ、弱さに気づかされます。でも、そこで留まってはならないのです。自分だけを見つめるのではなく、神さまを見つめていくのです。貧しい心の私。しかし、そういう私を神さまは変わることなく、愛しておられる。私たちがすべきこと、それは神さまの愛を求めて生きることです。神さまは私たちに愛を与えてくださいます。私たちを愛に生きる豊かな人生へと導いてくださいます。だから、私たちは幸いなのです。
4節には、このようなことが語られています。
5:4 悲しむ人々は、幸いである、/その人たちは慰められる。
「悲しむ人々」。それがなぜ幸いなのでしょうか。むしろ、不幸なのではないでしょうか。4節の最後のところには、「その人たちは慰められる」とあります。悲しむ人々。私たちの人生においても、様々な悲しみがあります。愛する人を亡くすようなことがありますと、それは大きな悲しみです。けれども、悲しむ人たちは慰められる、というのです。誰が慰めてくれるのでしょうか。私たちを慰めてくださる方、イエスさまの慰めを受けるのです。私たちの悲しみを誰よりも知っておられ、いつも傍らにいてくださる。イエスさまの慰めを受けた人は、今度は他の人を慰める人になります。人の悲しみを知り、人を慰める者となります。だから、幸いなのです。
続いて5節をお読みします。
5:5 柔和な人々は、幸いである、/その人たちは地を受け継ぐ。
「柔和な人々」。柔和というと、どういうイメージがあるでしょうか。優しいということでしょうか。新しく出版された聖書協会共同訳では、「へりくだった人々」となっていました。新改訳2017でも別訳として「へりくだった者」とありました。へりくだる、というのは、神さまの前にへりくだるということです。柔和とありましたが、神さまの前に柔らかい心を持つということです。柔らかい心、柔軟な心、素直な心。私たちは神さまに対してどうでしょうか。頑なな心になっていないでしょうか。神さまを信頼し、神さまに心を開いていきましょう。
6、7節をお読みします。
5:6 義に飢え渇く人々は、幸いである、/その人たちは満たされる。
5:7 憐れみ深い人々は、幸いである、/その人たちは憐れみを受ける。
二つの幸いを一緒に読みました。この二つの言葉を読むと共通していることがあります。それは、果たして、自分の中に、「義」、正しさというのはあるだろうか。自分は「憐れみ深い」人間なのだろうか。ここには自分にはまったく当てはまらないような人のことが書いてあるように思えます。人と比べて、自分の方が少しは正義感が強いとか、人情が篤いということはあるかもしれませんが、神さまの前には、とても義に飢え渇く正しい自分とか、憐れみ深い自分なんて言えないと思います。そういう私たちですが、私たちはイエスさまに出会って、神さまの義、正しさを教えられ、神さまの憐れみを教えられているのではないでしょうか。「その人たちは満たされる」とありました。神さまの義、正しさを求めていくなら、神さまの義、正しさに生きる者とされるのです。「その人たちは憐れみを受ける」とありました。私は神さまの憐れみを受けている。そのことを知る人は、人に対しても憐れみ深い者とされていくのです。
8節を読みます。
5:8 心の清い人々は、幸いである、/その人たちは神を見る。
私たちは自分のことを「心の清い」者と言うことはできないでしょう。しかし、「その人たちは神を見る」とありました。「神を見る」というのは、この目で神さまを見る、ということではありません。心の目で神さまを見るということです。そうであるなら、イエスさまを信じている私たちは、イエスさまを通して神さまを見ているのではないでしょうか。イエスさまを見上げて生きる。その歩みの中で、主が私たちを日々、新たにしてくださり、清くしてくださるのです。
続いて9節です。
5:9 平和を実現する人々は、幸いである、/その人たちは神の子と呼ばれる。
イエスさまを救い主と信じた私たちは「神の子」とされました。「神の子」とされた私たちは真の親である方、神さまに従っていきます。生まれながらの私たちは罪に支配されていて神さまから離れていた者でしたが、イエスさまの十字架の執り成しにより、神さまとの平和を得ました。私たちは今や神の子、神さまの平和の使者とされたのです。平和を求めて歩みましょう。
そして、10節以下です。
5:10 義のために迫害される人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。
5:11 わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。
5:12 喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」
最後に語られている幸いは、迫害を受けた者についてです。イエスさまは群衆、弟子たちをご覧になり、これから、イエスさまに従って歩む中で、様々な迫害、苦しみに遭うことになることを思い、語られたのでしょう。私たちの今の時代、今の環境においては、大きな迫害というのはないかもしれません。しかし、どんな小さな迫害であったとしても、11節に「わたしのために」とありましたように、あなたがたが神さまに従って歩み、苦しみ、迫害を受けるとき、それは私のための苦しみであり、迫害なのだ、と主は言われるのです。私は主に従うゆえの苦しみを知るとき、この言葉に何度励まされたことでしょうか。その聖書の言葉をお読みします。「あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです」(フィリピ1章29節)。
そして、主は「天の国はその人たちのものである」、「天には大きな報いがある」と語られました。天の国の希望を持って歩んでいきましょう。
(むすび)
ある牧師先生は、このイエスさまの幸いのメッセージについて、このようなことを言われました。それはキリストを信じる信仰というのは、幸福信仰ではない。祝福信仰なのだ、というのです。幸福信仰というのは、世の中の幸福を追い求めていく生き方です。そのような生き方は何か試練があると、苦しみ、失敗などがあると、私は不幸なのだ、と考えます。しかし、私たちに与えられた信仰は違います。自分だけの幸せを追求するような生き方ではありません。神さまの祝福に生きる、神さまの恵みに生きる生き方、それはこの聖書の言葉が言い表しています。「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」(ローマ12章15節)。神さまから与えられた命を共に生きる、共に分かち合う生き方です。喜びを共にし、悲しみを共にする生き方です。そして、それが幸いな人、幸いな生き方なのです。
祈り
恵み深い主なる神さま
主は「幸いな人」について語られました。その語りかけを聴くと、自分はいかに「幸いな人」とはほど遠いかに気づかされます。しかし、主が私たちを「幸いな人」として生きるように導いてくださっていることを知らされます。
「幸いな人」とは、自分だけの幸せを追求する人ではありません。神さまの愛と義を求めて生きる人こそは「幸いな人」です。日々、自分の貧しさに気づかされる私たちですが、神さまの愛と義で私たちを満たし、導いてください。
私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン
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