【礼拝説教】2022年8月14日「律法の完成者」
聖書―マタイによる福音書5章17~20節
(はじめに)
旧約聖書の中に、神さまがイスラエルの指導者モーセに律法をお与えになった場面が書かれています。律法というのは、神さまのみ心、み心というのは、神さまのお考えとか思いということで、それに基づいての教えが律法です。神さまはご自分がお造りになった人間がよりよく生きていくために律法をお与えになりました。旧約聖書・出エジプト記20章には、その律法の中心、十戒が書かれています。十の戒めと書きます。直訳的には、十の言葉です。神さまから私たちに与えられた十の言葉です。
今日の聖書箇所には、その律法について、イエスさまが語られたことが書かれていました。イエスさまは律法について、このように語られました。
5:17 「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。
イエスさまがこの世においでになったのは、律法や預言者を廃止するためではない。完成するためだ、と言われました。最初にお話ししましたように、神さまが律法をお与えになりました。モーセはこれを神さまが選ばれた民であるイスラエルの民と一緒に大切に守りました。ところが、律法を神さまがお与えになった本来の目的、意味から離れてしまった人たちがいました。
律法を自分の正しさを人々に表すため、認めさせるため。そういうことを目的にする人たちが出てきました。このことを信号機で考えてみますと、信号が青の表示の時には、歩行者は道路を渡ります。でも、赤の表示の時は、車が通りますので、渡りません。信号機があるのは、事故が起こらないように、危険なことにならないように、ということが目的です。ところが、信号機の指示に従わない人がいると、信号機の指示に従っている人は「あなたは信号機の指示に従っていないから間違っている、悪い人だ」。そういって、その人を悪い人、ダメな人と決めつけてしまうなら、どうでしょうか?それが信号機の目的ではありません。目的はみんなの安全のため、事故が起こらないためです。
律法についてもそれと同じです。自分はちゃんと律法を守っているから、善い人、正しい人。律法を守らない人は悪い人、ダメな人。そういう決めつけは間違いです。律法を守らないことで、その人はよりよく生きていくことができなくなってしまう。けれども、だからあの人は悪い人、ダメな人ということではありません。
イエスさまは人々に神さまの教えを語られました。イエスさまの語られる言葉から人々は、神さまを愛すること、人を愛すること、そのことが最も大事なことであると教えられました。ところが、律法というのは、誰が正しい人で、誰が悪い人か、誰が善い人で、誰がダメな人か、そういうことを決める教えだから、イエスさまのお話ししていることとはかけ離れている。そんな律法なんか、もう必要ない、意味がない。そのように考える人たちが出てきました。それに対して、イエスさまは律法とは何か、そのことをお話しになったのです。
(聖書から)
もう一度、17節をお読みします。「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである」。イエスさまは、私は律法を廃止するために来たのではありません。むしろ、律法を完成するために来たのです、と言われました。これを聞いて、人々は不思議に思いました。なぜなら、律法を守ることが大事だ!と声高に主張する人たちとイエスさまのお話ししていることではずいぶん違うことのように思えたからです。それなのに、イエスさまは、私は律法を完成するために来ました、と言ったからです。
さらにイエスさまはこのようにも言われました。
5:18 はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。
この「律法の文字から一点一画も消え去ることはない」という言い方は面白いです。一点一画、つまり、律法の隅々まで、どんなに小さいところまで、消え去ることはありません。それほど、大事なものなのです、と言われました。イエスさまは、律法は神さまがお与えくださったものであるということを言っているのです。だから、これを大事に守り、従っていくのです、と言われたのです。
私たちは聖書の言葉を神さまが私たちに語ってくださる言葉と信じて聞きます。神さまは聖書の言葉一つ一つを通して、私たちに何を語っておられるのだろうか。そのことを祈りつつ、聞きます。イエスさまは律法についても、神さまがあなたがたに教えてくださる大切な言葉なのだ、とお語りになったのです。
続いて、19節をお読みします。
5:19 だから、これらの最も小さな掟を一つでも破り、そうするようにと人に教える者は、天の国で最も小さい者と呼ばれる。しかし、それを守り、そうするように教える者は、天の国で大いなる者と呼ばれる。
律法、ここには掟とも言われていますが、どの律法、掟も大事なものであることが言われています。私はこの19節の言葉を読んで、とても励まされました。19節の後半には「それを守り、そうするように教える者は、天の国で大いなる者と呼ばれる」とありました。この「それ」というのは、「これらの最も小さな掟」という意味です。つまり、どんな小さな掟でもそれを守ること、また守るように教える者は天の国で大いなる者と呼ばれる、ということです。
私たちが神さまに従って歩んでいこうとする時、神さまのために、どれだけ大きな働きができるだろうか、人々からも賞賛されるだろうか。そういうことを求めて、人と比べて、自分の働きは小さい、目立たない、と考え、がっかりしたり、劣等感を抱いたりする方がおられるかもしれません。先日、ある信徒の方の証しの本を読みました。その方が青年時代、牧師から清掃の奉仕を頼まれたそうです。ところが、その時間帯というのは、聖歌隊の練習時間と重なりました。その方は何人かの青年たちと清掃をしながら、聖歌隊の人たちが練習している姿を横目で見ながら、ムカムカしていたそうです。自分たちは誰にも知られない、目立たない清掃の奉仕をしているのに、あの人たちは礼拝で注目されるような働きをしている。不平等じゃないか!腹が立ってしょうがなかったそうです。後で知ったことですが、その教会の牧師は自分の性格(この方は自己顕示欲がとても強かったそうですが)を見抜いていて、あえてそういう奉仕を頼んだようです。そして、これも後になって気づかされたことですが、清掃の奉仕と聖歌隊の奉仕には上下関係はない。どちらも神さまの目には尊い奉仕なのだ、と思うようになったそうです。人の目には、小さな、目立たない、そのように思われる奉仕、働きも神さまの目には尊いもの。私たちは人の評価とか、自分を誇示することとか、そういうことを求めるのではなくて、神さまに良しとされていること、神さまに喜ばれることを求めていきたいと思うのです。
20節をお読みします。
5:20 言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない。」
自分たちこそは律法を守っている正しい信仰者であると、自分たちの信仰を誇っていた人たちがいました。それがここで言われている律法学者やファリサイ派の人たちでした。彼らは自分たちと同じようにはできない人たちを見下したり、裁いたりしました。ところが、イエスさまはそういうことなら、律法はもう必要ない!とは言われませんでした。律法は大切だ、と言われました。そして、このようなことまで言われました。「あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない」。
イエスさまは律法学者やファリサイ派などに負けてはいけません。あなたがたは彼ら以上に、しっかりと律法を守ることに努めなさい!と言われたのでしょうか?もし、そうだとするなら、これを聞いた人たちは自分たちにはそんなことは無理だ、と思ったでしょう。
今日の聖書の箇所、17節の言葉から知ることは、イエスさまこそは律法の完成者ということです。そして、20節の言葉から知ることは、イエスさまこそは律法の実行者ということです。律法学者やファリサイ派の人たちは律法を守ることに励んでいました。とても真面目な人たちだったと言われています。しかし、その目的を間違えていたのです。これは先ほどお話ししましたが、彼らの目的は、自分たちの義、正しさを誇るため。そして、律法を守れないでいる人たちを裁くためでした。イエスさまがこの世においでになり、律法を完成させると言われたのは、神さまがお与えになった律法の本来の目的、正しい理解をお示しになるためでした。神さまに造られ、愛されている互いがよりよく生きていくため、互いに愛し合い、赦し合い、共に生きていくため。そのことをイエスさまはお示しになったのです。
イエスさまこそは律法の実行者です。この後の21節以下のイエスさまの言葉は大変厳しいものです。それは律法、つまり神さまの教えというのはそう簡単に従えるものではない、ということをお示しになっているからです。例えば、誰かに慈善活動をしても、それを行っている人の心の中はどうでしょうか?心からその人のために、と願って行っているでしょうか?律法に従うというのは、表面的に従うのではなく、心の奥底まで従うということなのです。そうなると、本当に従える人というのは誰もいないのではないでしょうか?しかし、イエスさまこそは律法の実行者です。イエスさまと共に歩んでいくことでイエスさまの助けをいただいて神さまの教えに従う者とされるのです。
(むすび)
今日の聖書の言葉が私たちに語っていること、それは律法の完成者であり、律法の実行者であるイエスさまと共に歩む、ということでした。イエスさまが私たちのところにおいでになったことを心から感謝したいと思います。イエスさまを自分の人生に、心にお迎えして、イエスさまと共に歩んでいきましょう。
祈り
恵み深い主なる神さま
イエスさまは神さまが与えてくださった律法の正しい意味を教えてくださり、律法に従えるように、私たちのところにおいでになりました。
どんな小さな奉仕、働きも神さまはご存じです。人の目や人の評価ではなく、神さまのまなざし、神さまの喜ばれることは何かを求めて歩む者にしてください。イエスさまが私たちと共に歩んでくださることを感謝します。
私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン
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