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【礼拝説教】2023年2月26日「私たちはキリストの体」

2023年2月26日(日)(朝・夕)赤塚教会礼拝説教「私たちはキリストの体」コリントの信徒への手紙Ⅰ 12章12~31節

聖書―コリントの信徒への手紙一12章12~31節
(はじめに)
 先週お読みしました聖書の言葉(一コリント12章1~11節)から、私たちは、賜物ということについて聴きました。賜物というのは、神さまから与えられたものであり、仕えるためのものです。ところが、コリントの教会の人たちの中には、賜物を、自分を誇るためのものと考えていた人たちがいました。パウロは、賜物は、「全体の益」(7節)、すなわち、教会全体のため、教会に連なる一人一人のために用いるものなのだ、と語っていきました。今日は、その後半の聖書の言葉から聴いていきます。

(聖書から)
 12節には、このようなことが書かれていました。
12:12 体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である。
 ここでパウロは体についての話をしています。私たち人間の体は、多くの部分からなっている。その通りです。目があり、鼻があり、耳があり、手があり、足がある。幾つもの部分があっての体です。この話をして、パウロは「キリストの場合も同様である」と言っています。これはどういう意味かと言うと、教会のことを言っています。教会とは、キリストの体なのだ(27節)。あなたがたの体には、幾つかの部分があるように、教会も幾つもの部分があって成り立っているのだ、というのです。これに続いて、13節では、このように語られています。
12:13 つまり、一つの霊によって、わたしたちは、ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、皆一つの体となるために洗礼(バプテスマ)を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです。
 ここでは、ユダヤ人、ギリシア人、奴隷、自由な身分の者ということが言われていますが、教会には、いろいろな人種、民族、そして、社会的な立場の人たちがいるということです。ここには、「一つの霊」ということが言われていますが、これは聖霊のことです。「皆一つの体となるために洗礼(バプテスマ)を受け、皆一つの霊をのませてもらった」と続いていますが、「一つの体」とは、キリストの体、教会ということです。私たちはそれぞれ違いがありますが、キリストの体、教会となるために聖霊によってバプテスマを受けたというのです。もう一度言います。バプテスマというのは、私たちがキリストの体、教会となるためなのだ、ということです。この後、パウロは、教会を体の各部分に例えながら、教会について語っています。
12:14 体は、一つの部分ではなく、多くの部分から成っています。12:15 足が、「わたしは手ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。12:16 耳が、「わたしは目ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。12:17 もし体全体が目だったら、どこで聞きますか。もし全体が耳だったら、どこでにおいをかぎますか。12:18 そこで神は、御自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです。12:19 すべてが一つの部分になってしまったら、どこに体というものがあるでしょう。12:20 だから、多くの部分があっても、一つの体なのです。12:21 目が手に向かって「お前は要らない」とは言えず、また、頭が足に向かって「お前たちは要らない」とも言えません。12:22 それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。
 お読みしてもう十分お分かりになったと思います。教会とは、私たちの体の各部分のように、いろいろな人がいるのです。みんながみんな同じではないのです。違いのある人たちが神さまによって呼び集められているのです。それなのに、私たちは時々、このように言ってしまう、考えてしまうのです。自分を誰かと比較して、「私はあの人のようにあれができない、これがないから教会にとって必要のない者なのだ」。自分より劣っていると思う相手のことを見下して、「あの人は教会にとって必要のない者なのだ」。自分のことを教会にとって不必要であると考えたり、また、他人のことを教会にとって不必要であると考えたりしてしまうのです。しかし、「神は、御自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれた」、「体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要」とパウロは語るのです。
 23~26節には、このように語られています。
12:23 わたしたちは、体の中でほかよりも恰好が悪いと思われる部分を覆って、もっと恰好よくしようとし、見苦しい部分をもっと見栄えよくしようとします。12:24 見栄えのよい部分には、そうする必要はありません。神は、見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。12:25 それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。12:26 一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。
 24節のこの言葉はとても大事なことが言われていると思います。「神は、見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました」。「見劣りのする部分」。私たち人間の視点、考えでは、その見劣りのする部分を覆ったり、見栄えよくしたりします。しかし、神さまは、見劣りのする部分をいっそう引き立たせる、というのです。これはどういうことでしょうか?それは、覆ったりせず、見栄えよくしたりもせず、見劣りのするままで、神さまはその部分、その人を用いられるということではないでしょうか?
 私は、この「神は、見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました」という言葉から、パウロの証しが書かれている聖書箇所を思い起こしました。その証しを読んでみたいと思います(二コリント12章7~10節)。
12:7 また、あの啓示された事があまりにもすばらしいからです。それで、そのために思い上がることのないようにと、わたしの身に一つのとげが与えられました。それは、思い上がらないように、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです。12:8 この使いについて、離れ去らせてくださるように、わたしは三度主に願いました。12:9 すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。12:10 それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。
 パウロの証しを途中から読みました。「あの啓示」とありますが、これは、この章の前半に書かれている何か霊的な体験のことだと思います。そのことをパウロは誇りとしていたのか、というと、そうではありませんでした。パウロの肉体には一つのとげが与えられた、と言っています。それが何であるかは分かりませんが、おそらく、病であったと思われます。その病があるために、福音宣教の働きに支障があると考えたのでしょう、パウロは神さまに三度、癒しを祈りました。「三度」というのは、何度も祈った、ということを意味します。何度も癒しを祈ったパウロでした。しかし、神さまはパウロにこのように語られました。「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」。「力は弱さの中でこそ十分に発揮される」。岩波訳では、「力は弱さにおいて完全になる」となっています。パウロが誇りとしていたのは、今お読みしましたように、自分の弱さを誇ったのです。弱さにあって、自分を支え、自分を生かしてくださる神さまを誇ったのです。
 そして、今日の箇所で「神は、見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました」と語られていましたように、「見劣りのする部分」。パウロの証しで言えば、「弱さ」。そこに神さまの力は現れるのです。

(むすび)
 「それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです」とありました。互いに配慮し合う、共に苦しむ、共に喜ぶ。それが教会なのです。28節以下には、様々な働き人、賜物のことが語られています。いろいろな賜物があるけれども、最も大きな賜物、誰もが神さまからいただいている、そして、だれもが用いるべき賜物があると、パウロは語ります。
12:31 あなたがたは、もっと大きな賜物を受けるよう熱心に努めなさい。
そこで、わたしはあなたがたに最高の道を教えます。
ここには、13章へと続く言葉が語られています。13章は「愛の章」と言われます。愛とは何でしょう。今日お読みしました聖書の言葉で言えば、互いに配慮し合い、共に苦しみ、共に喜ぶ。このことこそは、愛ということではないでしょうか。コリントの教会は、いろいろな問題を抱えた教会でしたが、優れた賜物を持った人たちがいて、とても活発な教会だったようです。しかし、この教会に対して、あなたがたは最も大切なことを見失っていないだろうか、とパウロは問いかけたのです。私たちも最も大きな賜物、最も大切なことを見失うことがないようにしたいと思います。

祈り
恵み深い主なる神さま
  使徒パウロは、教会を体に例えて語りました。体のどの部分もかけがえのない大切な部分です。それと同じく、キリストの体である私たち一人一人は神さまにとって、そして、お互いにとって、かけがえのない大切な一人一人です。ところが、その神さまの視点、価値観から離れて、他人のこと、また自分のことも、不必要な者、無価値な者と考えてしまうようなことがあります。そのようにして、私たちは罪(神さまから離れた生き方)に陥ります。
 「神は、見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました」とありました。神さまは、見劣りのする部分をいっそう引き立たせてくださいます。神さまは、弱さの中で働いてくださいます。その神さまの心をおぼえながら、互いに配慮し合い、共に苦しみ、共に喜ぶ群れとして導いてください。
私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン

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