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【礼拝説教】2022年11月6日「報いてくださる神」

聖書―マタイによる福音書6章1~4節
(はじめに)
 私たちが聖書から教えられる信仰生活はひと言で言うと、イエス・キリストを信頼し、この方に従っていく生活です。イエスさまは私たちを愛しておられ、私たちがより良く生きていくことができるために、この聖書の言葉を通して語ってくださいました。今日も私たちはイエスさまが私たちのために語ってくださっている言葉を聴いていきたいと思います。
 お読みしました聖書の箇所は、マタイによる福音書6章1~4節です。この箇所について、新共同訳聖書の小見出しを見ますと、「施しをするときには」と付けられています。施し、それは貧しい人たち、生活の困っている人たちに支援をするということです。当時、聖書の舞台であるユダヤでは、三つの善い行いと言われるものがありました。今日お読みしました聖書に書いてありました「施し」、そして、6章5節から書かれています「祈り」、6章16節から書かれています「断食」です。
 6章1節には、このようなことが書かれていました。
6:1 「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる。
 イエスさまは、善行、善い行いを見てもらおうと、人の前でそれを行なわないように注意しなさい、と言われました。このようにイエスさまが言われたのは、実際に、わざわざ人の前で、人の目に付くようなところで、善い行いをする人たちがいたからです。ただここで気をつけなければならないのは、善い行いをすること自体がいけないことだ、というのではありません。「見てもらおうとして、人の前で」ということ、これが問題なのだ、というのです。

(聖書から)
 では、「見てもらおうとして、人の前で」、このことがなぜ、問題なのでしょうか。イエスさまは、その理由を語っておられます。「さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる」。「あなたがたの天の父」というのは、神さまのことです。神さまからの報いをいただけないことになる、とありますが、報いとは、何でしょうか?手元の国語辞典を引いてみますと、このように書いてありました。「自分のしたことが結果として自分に返ってくること」(『角川必携国語辞典』)。この国語辞典では、報いについて、こういうことも書いてありました。「多く、悪いことにいう」。これは多くの場合、悪いことに使われる、という意味だと思います。報いというのは、普通は悪い意味で使われるようです。悪いことを行なっていたら、悪い報いが返ってきますよ、ということです。
 しかし、ここでは、悪い報いではなくて、善い報いです。善いことを行なっていたら、善い報いが返ってくる、ということです。もう一度、先ほどの聖書の言葉を読んでみますと、「あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる」とありました。神さまからの善い報いをいただけなくなる。これはとても残念なことです。いえいえ、そんなことはない。人に注目されるなら、人に賞賛されるなら、それで十分、いいのではないか?そのようにお考えになる方もあるかもしれません。
 続いて、2節をお読みします。
6:2 だから、あなたは施しをするときには、偽善者たちが人からほめられようと会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。はっきりあなたがたに言っておく。彼らは既に報いを受けている。
 施しをする時、あなたは偽善者たちが人からほめられようと、会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない、とありました。ここに「偽善者」とあります。偽善というのは、実際はそうではないのに、善い人に見せかけることです。この偽善者という言葉ですが、聖書の原語から見ると、「俳優」という意味があります。俳優というのは、私たちがテレビや映画で観るあの俳優のことです。俳優はいろいろな役を演じます。善人の役を演じたり、悪役を演じたりして、私たちを楽しませます。でも、その俳優が実際は善い人であるのか、悪い人であるのかは分かりません。俳優自身は、与えられた役に合わせて演じているだけです。
 あなたがたが人からほめられようと、会堂や街角など、人の多いところ、目立ったところでラッパを吹き鳴らす。つまり、善い行いをしていることを主張しているとき、それは俳優が善い人を演じているのと同じだ、というのです。「彼らは既に報いを受けている」とありますが、この報いというのは、具体的には人々の賞賛、評価といったものでしょう。「あの人は、施しをしている。とても素晴らしい!」。そのような言葉を受けることです。
 続いて、3節をお読みします。
6:3 施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。
 これはどういうことでしょうか?ここで言われている右の手、そして、左の手というのは、それぞれ自分の右の手、自分の左の手のことです。右の手のすることを左の手に知らせてはならない、というのは、不思議な言葉です。そんなことはできっこありませんから。それではイエスさまはなぜ、こんなことを言われたのでしょうか?右の手のすることを左の手に知らせてはならない。それは、自分自身に知らせてはならない、自分自身に言い聞かせてはならない、ということです。私たちは善いことをすると、心の中でこのように自分に言い聞かせるのではないでしょうか?「自分もまんざらでもない。自分は神さまを信じているし、それなりに神さまの言葉に従っているし、世の中の人たちに比べたら、善い人なのではなのだろうか?」。このように自画自賛してしまうかもしれません。
 4節をお読みします。
6:4 あなたの施しを人目につかせないためである。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。」
 4節のこの言葉、「あなたの施しを人目につかせないためである」。ここまで読みますと、自分がうぬぼれないように、傲慢にならないように、施し、善い行いというものは人目に付かないように行なったらよいのだろう、と考えるかもしれません。しかし、ここで言われていることはそういうことではないと思います。私はここでイエスさまが言われた「人目」というのは、人々の目であり、自分の目であると思います。あるいは人々の評価、自分自身の評価であると思います。イエスさまがこのことを言われたのは、私たちが施しをする、善い行ないをする。それは何を目的にしているのか、どこに向かっているのか、ということを問いかけているのだと思います。私たちが人にほめられたいと考えているとき、人の評価を求めているときというのは、神さまのことは忘れているのです。
 ところで、ここで神さまのことをイエスさまはこのようにおっしゃっています。「隠れたことを見ておられる父」。神さまは隠れたことを見ておられる方と言われます。隠れたこととは、何でしょうか?隠れたこと、それは私たちの心の中です。神さまは私たちの心の中を見ておられる。イエスさまがあなたがたは偽善者のようになるな、と言われました。偽善者とは俳優という意味があると言いましたが、私たちは、目に見えるところでは、表向きは善いことを行なっていても、心の中はどうでしょうか?私たちは善い人を演じているようなことがあるかもしれません。神さまはそういう私たちの心の中をご存じです。
 隠れたこと、もう一つのこととして、それは私たちの隠れた行いです。隠れた善い行ないかもしれませんし、隠れた悪い行いかもしれません。神さまはそのすべてを見ておられる、ご存じなのです。隠れた善い行ないというのは、私たちはあまりやりたがらないかもしれません。隠れたところ、人に知られないところで善いことをしても、人に注目されること、ほめられることはありません。でも隠れた善い行ないを神さまは見ておられる。神さまは喜んでおられるのではないでしょうか。たとえ、人から評価されなくても、神さまが見ておられるなら、神さまが良しとされるなら、私たちはそのことを喜びたいと思うのです。実は教会の働きというのは、この隠れた善い行ないが多いのではないかと思います。私は教会の皆さんの隠れた善い行ないを後になって知らされることがあります。その時にはとても胸が熱くなります。繰り返しますが、隠れた善い行ないを神さまは見ておられ、喜んでおられることをおぼえたいと思います。
 そして、隠れた悪い行い。このことにも触れたいと思いますが、神さまは私たちのすべてをご存じです。人に知られなければ、見られなければ、いいだろう、と思うかもしれません。しかし、神さまは知っておられ、見ておられ、悲しまれます。私たちの信仰は、人に見られようが、見られまいが、すべてをご存じの神さまの前にどう生きるか、ということです。神さまは私たちがどのような者であっても、愛しておられ、大切な存在としてくださっています。だから、神さまの前に罪を悔い改め、神さまの赦しを受けましょう。神さまは私たちを新しく生きるように導いてくださいます。

(むすび)
 イエスさまは「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように」と言われました。そもそも、善行、善い行いというのは、どこから出ているのでしょうか?ヤコブの手紙1章17節には、このような言葉があります。「良い贈り物、完全な賜物はみな、上から、光の源である御父から来るのです」。すべての善いことは神さまから出ていることを忘れてはなりません。神さまが私たちのためにしてくださった善いこと、神さまが私たちに与えてくださった報い、それは私たちにご自分のみ子であるイエス・キリストをお送りくださり、この方によって私たちを罪から救い、永遠の命へと導いてくださったことです。この神さまのなさった善いこと以上に私たちには善いことはない、善いことはできないのです。私たちは、神さまが私たちにしてくださったこの善いことを見つめて、それを喜び、感謝し、それに応えて生きていくのです。

祈り
恵み深い主なる神さま
 自分のした善い行ないを誇ってしまう私たちです。しかし、神さまのみ子イエスさまが私たちのためになさった善いこと以上に、善いことは誰にもできません。その方は私たちのためにご自分の命をささげて、私たちを罪の滅びから救いへ、死から命へと導いてくださいました。私たちはその善いこと、十字架の救いを見つめながら、私たちも善いことのために生きる者としてください。
私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン

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