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【礼拝説教】2022年11月20日「神から出たものとして生きる」


聖書―コリントの信徒への手紙一11章2~16節
(はじめに)
 お読みしました聖書の中に「伝えられた教え」(2節)という言葉がありました。伝えられた教えというのは何かというと、イエス・キリストの福音のことです。私たちはこの福音を人々から伝えられて聴き、これを受け入れた人はまた新たに人々に伝えます。
 このコリントの信徒への手紙を書いたパウロはこのようなことも言っています。「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです」(15章3節)。パウロは、この「伝えられた教え」のことを「最も大切なこと」と言っています。この「最も大切なこと」の中身を読んでみますと、「すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと」(15章3、4節)です。「伝えられた教え」、「最も大切なこと」とは、イエス・キリストの十字架と復活のことです。

(聖書から)
 今日の聖書箇所の最初の2節をお読みします。
11:2 あなたがたが、何かにつけわたしを思い出し、わたしがあなたがたに伝えたとおりに、伝えられた教えを守っているのは、立派だと思います。
 パウロはコリントの教会の人たちが伝えられた教えを守っていることを立派だ、と言っています。聖書協会共同訳では、「立派だと思います」というところが、「褒めたいと思います」となっています。パウロはコリントの教会の人たちの信仰生活を喜んで、このように励ましの言葉を語っています。ところが、この後には、コリントの教会に起きている一つの問題について触れています。どのような問題があったのでしょうか?その問題に触れる前に、まず、パウロはこのようなことを言っています。3節です。
11:3 ここであなたがたに知っておいてほしいのは、すべての男の頭はキリスト、女の頭は男、そしてキリストの頭は神であるということです。
 コリントの教会の人たちに知っておいてほしいこととして、「すべての男の頭はキリスト、女の頭は男、そしてキリストの頭は神である」という話をしています。これを読んでみますと、神、キリスト、男、女という順序、秩序があると言われているようですが、頭というのは、代表とか、源、源泉という意味で理解されます。そして、これに続いて、4、5節には、このようなことが言われています。
11:4 男はだれでも祈ったり、預言したりする際に、頭に物をかぶるなら、自分の頭を侮辱することになります。11:5 女はだれでも祈ったり、預言したりする際に、頭に物をかぶらないなら、その頭を侮辱することになります。それは、髪の毛をそり落としたのと同じだからです。
 男と女、それぞれのことが言われていますが、どちらについても、「だれでも祈ったり、預言したりする際に」とあります。祈ったり、預言したりする。これは教会での集会、例えば、礼拝の時に祈る。あるいは預言する、ということです。祈るということは分かりますが、預言する、というのは何かというと、神さまの言葉を語る、説教する、ということです。そういうことが、教会の集会で男性、女性問わず、行なわれていたようです。
 これと関連する話として、同じコリントの信徒への手紙一14章34節に触れたいと思います。ここには、「婦人たちは、教会で黙っていなさい」ということが言われています。この言葉を根拠にして、女性が牧師として立てられることは聖書的ではないとか、女性が説教してはいけない、と主張する人たちがあります。しかし、今日の箇所では、男性、女性を問わず、祈ったり、預言していたこと、つまり説教していたことが書かれていました。そういうことからすると、14章にあります女性は教会で黙っているように、というのは、何か特別な問題があったために言われたことと考えられます。
 今日の箇所に戻りますが、教会の集会で、祈りがなされ、預言、説教がされている、その時に、男の場合は、頭に物をかぶるなら、自分の頭を侮辱することになる。一方、女の場合は、頭に物をかぶらないなら、自分の頭を侮辱することになる、と言われています。頭に物をかぶるということですが、何を頭にかぶっていたのでしょうか?別の訳では、「覆いをかける」(口語訳、岩波訳)と訳されています。また髪の毛を結わくこと、髪の毛を結んでまとめていることだという説もあります。カトリック教会では、ミサの時に、女性はベールをかぶるという習慣がありますが、そのベールのことと考えてもいいかもしれません。最近では、カトリック教会のミサでも、ベールをかぶる人というのは少なくなってきたそうです。
少し話は横道に逸れますが、私の父の妹、私にとっては叔母に当たる人ですが、この人は若くして病のために亡くなりましたので、私は直接会ったことはありませんが、父の実家には、この叔母の写真が置いてありました。それは頭にベールをかぶっていた写真でした。叔母はカトリックの信者で、父よりも先にクリスチャンになったそうですので、父の妹、この叔母が私の親族、血筋の中では、最初のクリスチャンと言えるかもしれません。
 今日の聖書に戻りますが、パウロは、当時の教会の秩序、習慣を大事にしたようです。この時代、ベールをかぶる必要はないのではないか?男性も女性も同じ格好でいいのではないか?そのようなことを主張する人たちがいたようです。それに対して、パウロは、当時としては、急進的な考えの人たちに対して、ブレーキをかけたようなことを言っています。6節以下をお読みします。
11:6 女が頭に物をかぶらないなら、髪の毛を切ってしまいなさい。女にとって髪の毛を切ったり、そり落としたりするのが恥ずかしいことなら、頭に物をかぶるべきです。11:7 男は神の姿と栄光を映す者ですから、頭に物をかぶるべきではありません。しかし、女は男の栄光を映す者です。11:8 というのは、男が女から出て来たのではなく、女が男から出て来たのだし、11:9 男が女のために造られたのではなく、女が男のために造られたのだからです。11:10 だから、女は天使たちのために、頭に力の印をかぶるべきです。
 パウロが頭のかぶり物のことで根拠を置くのは、男と女の順序、秩序ということです。また女性のかぶり物の意味については、10節に「力の印」、別の訳では「権威の印」(聖書協会共同訳)とあります。かぶり物というのは、神さまの力、権威に従うという意味を持つ印として考えられていたようです。
 先ほどお読みしました3節や8、9節などをお読みしますと、これらは創世記にあります神さまが男性と女性を造られたことが書かれている聖書箇所(創世記1章26、27節、2章18、21、22節)からきているようです。このような聖書箇所を読みますと、現代の私たちにとっては、男性が女性よりも優位な立場にあるように思えて、抵抗を感じるかもしれません。しかし、パウロは次のようなことも言っています。
11:11 いずれにせよ、主においては、男なしに女はなく、女なしに男はありません。11:12 それは女が男から出たように、男も女から生まれ、また、すべてのものが神から出ているからです。
 これらの言葉を読みますと、「主においては、男なしに女はなく、女なしに男はありません」とありますように、男性と女性、どちらが上か下か、どちらが優位であるか、そのようなことは言われていません。そして、ここで大事なこととしてパウロが言っているのは、「すべてのものが神から出ている」ということです。男も女も神さまから造られた、神さまから出ている対等な存在ということです。これに続いて13節以下の言葉です。
11:13 自分で判断しなさい。女が頭に何もかぶらないで神に祈るのが、ふさわしいかどうか。11:14 -15男は長い髪が恥であるのに対し、女は長い髪が誉れとなることを、自然そのものがあなたがたに教えていないでしょうか。長い髪は、かぶり物の代わりに女に与えられているのです。11:16 この点について異論を唱えたい人がいるとしても、そのような習慣は、わたしたちにも神の教会にもありません。
 ここには「自分で判断しなさい」ということ、「習慣」ということが言われていました。自分で判断するということは、ここで語られてきたことは、絶対的な意味を持つ内容ではないということです。また、習慣とありました。習慣というのは、時代と共に、また地域によって変わるものです。パウロは、秩序とか、伝統的な習慣といったものを守るように言っているようですが、それらのことが絶対的なもの、変えてはならないものとは言っていません。

(むすび)
 今日の聖書の最初の言葉の中には、「伝えられた教え」ということが言われていました。その伝えられた教えとして、最も大切なことは、イエス・キリストの十字架と復活の福音であると言いました。このことは、時代が変わっても、地域が異なっても、変えてはならない、絶対的な教えであると私は信じています。一方で、頭のかぶり物の話が出ましたが、これは自分たちで判断していくもの、習慣というものであるとありました。
伝えられた教え、それは変えてはいけないものと変えてもよいものがあります。変えてはいけないもの、それは、伝えられた教えの中心、本質の部分、十字架と復活の福音です。では変えてもよいものとは何でしょうか。それは、今日の話に出てきました頭のかぶり物のことなどです。教会も変えてはいけないものと変えてもよいものがあります。変えてはいけないものとは、教会が伝えるもの、福音です。これは変えてはなりません。ずっと伝え続けていくものです。しかし、教会が福音をどのように伝えていくか、これについてはいろいろな伝え方、伝道の方法があると思います。時代によって、地域によって、いろいろな伝道の方法があります。
 最後に、聖書の読み方についてお話しして終わります。ある牧師先生は、聖書の読み方について説明されました。聖書を読むというのは、お茶を飲むことで考えたらよいというのです。私たちはお茶を湯飲みから飲みます。湯飲みごと飲むようなことはしません。湯飲みに注がれたお茶だけを飲みます。それと同じように、聖書を読む場合も、湯飲みというのは、時代背景であるとか、地域性ということです。それらを知ることは、聖書の理解を助けますが、私たちは聖書の書かれた時代に生きているわけではなく、聖書の舞台となった地域に住んでいるわけではありません。それらを超えて、神さまが聖書を通して、私たちに語られるいのちの言葉を聴いていくのです。このいのちの言葉を日々、いただいて歩んでまいりましょう。

祈り
恵み深い主なる神さま
  使徒パウロはコリントの教会に伝えられた教えを守るように語っていきました。伝えられた教えの中心点を踏まえて、教会として良き歩みをするように教えました。私たちも何が変えてはならないことか、変えるべきことなのか、祈りつつみ言葉に聴きながら、正しく判断することができますように。
イエス・キリストの十字架と復活、この福音はいつまでも変わらないものです。福音を伝えるために私たちは呼び集められました。これが教会に与えられた大切な使命です。この新しい週も、この福音に生かされ、福音を伝える歩みを導いてください。
私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン

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