【礼拝説教】2022年12月4日「光として来られた方」
聖書―ヨハネによる福音書1章1~5節
(はじめに)
先週の日曜日からアドベントに入りました。教会暦、教会のこよみでいいますと、待降節と言います。救い主イエス・キリストがおいでになるのを待ち望む、それがアドベントです。今年は12月24日のクリスマス・イヴ礼拝では、クリスマス・ページェント、12月25日のクリスマス礼拝では、フルートの演奏があります。楽しみにしていただきたいと思います。イエスさまが私たちのためにおいでになった。そのことを私たちは心を込めて、自分たちのできることでお祝いしたい、喜びたいと思います。
(聖書から)
今日お読みしました最初の言葉、それは「初めに言があった」(1節)でした。ここに書かれています「言」とは何かというと、神様の言葉です。言葉と言いましても、私たちの周りには、いろいろな言葉があります。その言葉を聞いたり、読んだりして日々を過ごしている私たちです。最近では、SNSでしょうか、インターネットでの言葉のやり取りが盛んになっています。それでは神さまの言葉とは、何でしょうか?旧約聖書・イザヤ書の言葉を読んでみます(イザヤ書40章8節)。
40:8 草は枯れ、花はしぼむが/わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ。
神様の言葉。それはどのようなものなのかイザヤ書の言葉が教えています。まず、「草は枯れ、花はしぼむ」とありました。時が経つと、草は枯れ、花はしぼみます。つまり、永遠ではないということです。私たちも草や花のように、永遠ではありません。やがては朽ち果ててしまう者ですが、「わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ」とありましたように、神様の言葉は永遠だというのです。それは永遠である神様の言葉を受け入れる人は永遠の命を生きることができるということです。今年、私たちの教会から、三人の方々を天に送りました。三人の方々とも九十を超えて大変長生きされましたが、地上における生涯を終えられました。しかし、神さまの言葉を受け入れて、永遠の命を生きる者とされたのです。
1:1 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。1:2 この言は、初めに神と共にあった。1:3 万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。
今日お読みしました聖書の最初の1~3節をお読みしました。繰り返し、「言」について語られています。この「言」というのは、神さまの言葉ということであり、また、私たちの救い主イエス・キリストを指しています。ここにはイエス・キリストは最初からおられ、まことの神さまと共におられ、イエス・キリストは神さまである、ということが言われているのです。
1節には「言は神と共にあった」とあり、2節にも「この言は、初めに神と共にあった」とあります。イエス・キリストは神さまと共におられた。この「共に」という言葉は「向き合う」という意味があります。イエスさまと神さまは向き合われた、というのです。向き合うというのは、共に生きること、交わりに生きる関係ということです。創世記2章18節には、神さまが人をお造りになったことが書かれています。
2:18 主なる神は言われた。「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」
神さまは人が独りでいるのは良くない、と言われました。これは、人は独りでは生きていくことができない者、ということです。人は共に生きる存在なのです。ここには「彼に合う助ける者」とありましたが、人は人と助け合って生きる存在なのです。神さまについて、キリスト教では、三位一体の神と言います。父と子と聖霊の神さま、それは私たちと共に歩まれ、向き合われる神さまということです。そして、その神さまによって造られた私たちも共に生きる、向き合って生きる。つまり、交わりによって生きる者なのです。
続いて、3節をご覧ください。「万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった」とあります。すべてのものは神さまの言葉によって成った、造られた(新改訳)のです。この箇所についても、創世記の言葉が思い浮かびます。創世記の最初の箇所、そこには「初めに、神は天地を創造された」(創世記1章1節)とあり、天地創造の様子が記されています。神さまが言葉を発せられたら、すべてのものが生まれた、造られたのです。
神さまの言葉、それは創造の言葉です。神さまが語られたら、それは成る、造られるのです。私たちの周りにはいろいろな言葉があります。私たちも言葉を発して生きている者です。私たちはどんな言葉を語っているでしょうか。言葉というのは良い意味でも、悪い意味でも力があります。ある時はその人の人生を前へと進ませることがあります。しかし、ある時は後ろ向きに、あるいは立ち止まらせてしまうこともあります。生み出し、造り出す言葉があり、立ち止まらせ、破壊する言葉があります。
しかし、神さまの言葉は人を造り上げる言葉、人を生かす言葉です。神さまは私たちにそのような言葉をお与えになりました。イエス・キリストをお与えになりました。私たちは日々、神さまの言葉をいただいて、自分自身が生かされていきたいと思います。生かされていることを知る人、生かされている喜びにある人は、人を生かすことに努めます。人を生かす言葉を語っていきましょう。
4節をお読みします。
1:4 言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。
神さまの言葉、それは命の言葉だというのです。イエスさまは「わたしは命のパンである」(6章48節)と言われました。命のパンとは、私たちが生きるために必要な食物、霊的な食物ということです。世のただ中を生きていく時、家庭や職場、様々なところで試練があります、苦難があります。どうしていったらいいだろうか、どう判断したらいいのか、決断しなければならないのか分からない・・・、と立ち尽くしてしまうことがあります。「命は人間を照らす光であった」と語られています。神さまは私たちの歩む道を照らす光となってくださるというのです。詩編119編105節に「あなたの御言葉は、わたしの道の光/わたしの歩みを照らす灯」とあります。
続いて、5節をお読みします。
1:5 光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。
私たちの人生は暗闇、真っ暗な闇の中をその先、どうやって歩んでいったらいいだろうか、とおそるおそる杖で確かめながら生きているようなものかもしれません。けれども、光は暗闇の中で輝いている、とあります。この光というのもイエス・キリストのことです。
暗闇の中で輝く光。このイエス・キリストという光は私たちの人生の闇を照らします。闇ということで、二つのことを考えることができます。一つは私たちの抱えている闇、暗さです。人生の様々な問題と言ってもいいでしょう。そこに光を照らす。希望を与えてくださる、生きる力を与えてくださるのです。私という闇、あるいは闇と思えるような出来事、そこにも主は共におられる。私たちと共におられる。それが暗闇の中で輝く光です。
さて、暗闇の中で輝く光ということ、もう一つのこととして、私たちの罪という闇を照らし、明らかにするということです。私たちは罪を隠します。それは人前にさらされるなら、人はどう思うだろうか・・・。私たちの生きるこの世は互いを裁き合うことばかり、赦しのない世界のように思えます。
しかし、イエス・キリストという光はそうではありません。私たちの罪をすべてご存じです。その罪を示し、認めさせます。けれどもそれはその人を責め立て、裁き、葬り去るためではありません。私たちが新しく生きるために、罪を悔い改め、罪から離れさせるために主はおいでになったのです。そして、主がその人と共に新しい人生を歩んでくださるのです。主はご自分が私たちの罪の身代わりとなってくださいました。それが十字架です。十字架の赦し、愛です。そのことを信じ受け入れる時、私たちは主の前に正直になることができる、素直になることができるのです。罪を告白し、主の赦しを受け止めて生きる者となるのです。
(むすび)
5節の最後に「暗闇は光を理解しなかった」という言葉がありました。いろいろな聖書の訳を読み比べてみますと、この「理解しなかった」というところが、「勝たなかった」(口語訳、聖書協会共同訳)となっています。また「阻止できなかった」(岩波訳)、「とらえなかった」(田川訳)とも訳されています。闇というのは、私たち自身のことであるとか、私たちの罪ということと考えられると言いましたが、私たちは光であるイエスさまのことを自分では理解することはできない、自分では捕らえることはできないのです。しかし、光であるイエスさまが私たちを理解してくださる、捕らえてくださるのです。私のことをイエスさまは理解しておられる、捕らえてくださる。そのことを信じて歩む時、私たちは光の中を生きる者(一ヨハネ1章7節参照)、イエスさまと共に歩む者となるのです。
祈り
恵み深い主なる神さま
アドベントの時を過ごしています。光であるあなたが私たちのところに来てくださり、私たちと共に歩んでくださっていること、私たちをあなたの交わりの中に入れてくださっていることを感謝します。
このアドベント、クリスマスに備える時、新たに救い主としておいでくださったイエスさまを受け入れる方々がありますように導いてください。
私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン
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