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【礼拝説教】2023年2月5日「神のまなざしをおぼえて」

2023年2月5日(日)(朝・夕)赤塚教会礼拝説教「神のまなざしをおぼえて」マタイによる福音書6章16~18節

聖書―マタイによる福音書6章16~18節
(はじめに)
お読みしましたマタイによる福音書6章には、当時の律法学者、ファリサイ派の人たちが重んじた信仰的な三つの善いことについて、イエスさまが語られていました。その三つの善いことというのは、一つは、施しです(1~4節)。二つ目は、祈りです(5~15節)。そして、三つ目が今日お読みしました断食です(16~18節)。施しをすること、祈ること、断食をすること。これらは、確かに善いことであり、律法学者、ファリサイ派の人たちはこれを率先して行っていました。それなのに、イエスさまは、律法学者やファリサイ派の人たちは素晴らしいことを行っている、と言って、褒めたりはしませんでした。
私たちが、自分の子供が善いことをしたら、「善くやったね」と言って、誉めるのではないかと思います。すると、子供はそれが励みになって、もっと善いことをしよう、と思うのではないでしょうか。この前、ショッピングセンターに行った時、エレベーターに乗っていましたら、あるお父さまが小学生から幼稚園ぐらいの三人の子供を連れて、あわてて閉まりかけたエレベーターに乗ろうとしました。ところが、子どもたちがあちこち走り回るので、間に合いそうにもなく、ドアが閉まりそうになったので、私は、エレベーターの「開く」のボタンを押しました。それでこの家族はエレベーターに乗るのに間に合ったのですが、そのお父さまは大変喜んで、「ありがとうございます」と言われました。その後、別の階で私がエレベーターから下りようとしたら、その家族の一人のお子さんがすっと手を伸ばして、「開く」のボタンを押して、私に「どうぞ」と言うのです。エレベーターのドアは自動で開くのに、そのお子さんはわざわざボタンを押すのです。私はその様子を見て、とても嬉しくなりました。ああ、これは先ほどの私の様子をよく見ていたのだな、と思いました。子供は大人の姿をよく見ていますね。ニュースなどを見ると、残念なニュースばかりです。あちらこちらで、悪いことが、人を人とも思わないようなことがはびこっているように思えます。しかし、それとはまったく正反対のこと、例えば、人に親切にするとか、助け合うこととか、そういったことがどんどん拡がっていったらよいのになあ、と思っています。そのためにはどうしたらよいかというと、私たちがまず、善いことを始めることです。

(聖書から)
さて、聖書に戻りますが、なぜ、善いことをしているのに?という思いになるかもしれませんが、イエスさまが語られた言葉は、大変厳しい言葉です。今日の聖書箇所を読んでみましょう。16節です。
6:16 「断食するときには、あなたがたは偽善者のように沈んだ顔つきをしてはならない。偽善者は、断食しているのを人に見てもらおうと、顔を見苦しくする。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。
イエスさまは、断食する時、偽善者のように沈んだ顔つきをしてはならない、と言われました。なぜ、断食をする時、沈んだ顔つきをするのか、というと、ああ、この人は断食をしているのだ、と分かるようにするためです。そして、断食をしていることが分かると、周りの人たちは、この人は断食をしている。とても信仰の篤い、熱心な人だ、と賞賛するのです。一方、断食をする側は、その賞賛を期待して、断食しているのが分かるように、沈んだ、辛い顔つきをするのです。イエスさまは、そういう様子をご覧になっていたのです。それで偽善者のようになるな、と言われたのです。
私は、断食することで、賞賛されたり、褒められることは、別に悪いことでもないし、問題ないのではないかと思います。私なら、善いことをする人を見たら、賞賛するでしょう。また自分が賞賛されることを願ったりもするでしょう。しかし、イエスさまは、そういう私たちの心をすべて見ておられる、知っておられるのです。もしも、私たちが人の見ていないところだと、そこでも善いことをするでしょうか?また、賞賛されることに慣れてしまい、賞賛されなければ、褒めてくれなければやらない、ということになったりすることがあるかもしれません。
イエスさまは、続いて、このようなことを言われました。
6:17 あなたは、断食するとき、頭に油をつけ、顔を洗いなさい。6:18 それは、あなたの断食が人に気づかれず、隠れたところにおられるあなたの父に見ていただくためである。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。」
ここで気になる言葉は、「あなたの断食が人に気づかれず、隠れたところにおられるあなたの父に見ていただくため」ということです。「隠れたところにおられるあなたの父」とあります。この「隠れたところ」というのは、どこでしょうか。それは、人に気づかれないところです。人が見ていないところです。そして、それは、私たちの心の中です。神さまは、人に気づかれない、見ていない、そこを見ておられるのです。神さまは、私たちの心の中を見ておられるのです。
そもそも断食とは何かということですが、私たちが思い浮かべるのは、ダイエットであるとか、修行ということでしょう。しかし、ここで言われている断食はそういうことではないのです。聖書が示す断食とは、神さまに対する悔い改めや神さまに心を集中して祈るための行為です。つまり、神さまに対して行うものです。それなのに、その神さまよりも、人に見られるため、人から賞賛を受けるためというふうに目的が違ってしまったのです。
17節には、「断食するとき、頭に油をつけ、顔を洗いなさい」とありました。自分が断食をしていることを人に気づかれずに隠すために、頭に油を付け、顔を洗いなさい、と言われています。断食をしていて、顔がやつれていたり、弱っていることを覆い隠すため?イエスさまが、そんなわざとらしいことを言われたのだろうか?と思うのです。断食をすること、食べること、飲むことを断ったりすることは、確かに辛いことであると思います。しかし、それは神さまに向かってすることです。神さまという方が、この私のことを愛しておられる、知っておられる。だから、その方に、安心して、自分の心のすべてを注ぎだしていく。すると頭に油を付け、顔を洗うというのは、この方に率直に、自分のありのままで祈ることができる!自分の罪を告白するなら、この方は赦してくださる!その感謝と喜びを表すことなのではないでしょうか。

(むすび)
最初にお話ししましたように、お読みしましたマタイによる福音書6章には、施し、祈り、断食、これらの三つの信仰的な善いことについて、イエスさまが語られた言葉が書かれていました。その三つのどれについても、イエスさまは、偽善者のようになるな、と繰り返し、語られていました。偽善者というのは、原語から言うと、役者、俳優という意味です。つまり、その人の本当の姿ではない、ということです。偽善者のようになるな、とは、人の前で、自分ではない者のように振る舞うな、ということです。実は、このことは私たちの信仰生活において、大きな課題だと思います。私たちも、自分ではない者のように振る舞ってしまうことがあります。私は、偽善者のようになるな。この言葉から、このような語りかけを聞きます。あなたは私と本当に出会っているか?向き合っているか?そして、私はあなたと出会いたい、あなたと共に歩みたい。イエスさまは私たちにこのように語りかけられておられるのではないでしょうか。そして、イエスさまと本当に出会う時、私たちは本当の自分、神さまに愛されている、赦されている自分として生きていくことができるのです。お祈りいたします。

祈り
恵み深い主なる神さま
主は、神さまの愛と恵みを見失い、神さまへの感謝と喜びからではなく、人から賞賛されること、褒めそやされることを求めていた人たちに問いかけられました。偽善者のようにではなく、本当の自分、神さまから見た本当の自分、神さまに愛されている、赦されている自分として生きていくように、と語られました。どうか、私たちも神さまを、そして、自分を見失うようなことがありませんようにお守りください。
私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン

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