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【礼拝説教】2023年4月23日「キリストにある大人へ」

2023年4月23日(日)(朝・夕)赤塚教会礼拝説教「キリストにある大人へ」コリントの信徒への手紙Ⅰ 20~40節

聖書―コリントの信徒への手紙一14章20~40節
(はじめに)
 聖書の言葉の中に、幼子のようになりなさい、というイエスさまの教えがあります。例えば、こういう言葉です(マルコ10章13~16節)。
10:13 イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。10:14 しかし、イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。10:15 はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」10:16 そして、子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された。
 先週は、献児式を行いました。親御さんが、神さまから与えられたそのお子さんを神さまにおささげします、神さまのみ手に委ねていきます、と告白し、教会が、その子に神さまの祝福があるように祈る式です。また教会では、他にも、お子さんの祝福を祈る子ども祝福式があります。その子ども祝福式の時に、読まれる聖書の言葉をただいま読みました。
 「子供のように神の国を受け入れる人」とありました。ここで注意したいことは、ただ幼子のようになりなさい、子供のようになりなさい、ということではなくて、子供のように、神の国を受け入れる人になりなさい、と言われているということです。小さいお子さん、幼子は、自分の親のことをすべて信頼しています。それと同じように、あなたがたも神の国、神さまが用意されているところはとても素晴らしいところなのだ。神さまはとても素晴らしい方なのだ、すべて信頼して受け入れていきなさい、とイエスさまは言われたのです。このように、イエスさまは、神さまを信頼する心を教えられたのです。

(聖書から)
 さて、今日の聖書の言葉には、子供のことが出てきましたが、ここでは、ちょっと意味が違います。コリントの信徒への手紙一14章20節をお読みします。
14:20 兄弟たち、物の判断については子供となってはいけません。悪事については幼子となり、物の判断については大人になってください。
 ここに「物の判断については子供となってはいけません」とありました。物の判断。別の訳では、「物の考えかた」(口語訳)と訳されています。私たちの人生の歩みは、物の判断とありましたように、一歩進む時に、どうしようか、と判断し、また一歩進む時に、どうしようか、と判断しながらの歩みです。何も考えないで、歩んでいくなら、後で大変なことになってしまいます。
 車に乗って出かける時、慣れない道だと、カーナビや地図を見たりします。今は、スマートフォンやパソコンの地図が便利です。そういうものを見ながら、一つ一つ確認しながら、進んで行きます。「物の判断については子供となってはいけません」とありましたが、まだ幼い時は、どの道を進んで行ったらいいのだろうと思っても、自分では道も地図も分かりません、調べることもできません。それなのに、進んで行ってしまったら、迷子になってしまいます。
 20節の後半には、こう書いてありました。「悪事については幼子となり、物の判断については大人になってください」。「悪事については幼子となり」とありました。悪事、悪いことをたくらむ、計画する、ということです。あなたがたは、悪いことをたくらんだり、計画したりする必要はありません。そういうことは知らなくてもいい、関心をもたないでいなさい、というのです。そして、「物の判断については大人になってください」と続いています。
 ここでは、子供のように、幼子のように、ではなく、大人のようになってください、とありました。物の判断、物の考えについては大人になってください、というのです。「大人」という言葉は、原語の言葉から即してみると、「完全な人」という意味です。「完全な人」というのは、聖書の別の個所にも出てきます。その箇所を見てみたいと思います(エフェソ4章13節)。
4:13 ついには、わたしたちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです。
 完全な人。口語訳聖書では、「全き人」、聖書協会共同訳では、「完全な者」と訳しています。新共同訳聖書では、「成熟した人間」と分かりやすく訳されています。ここに書かれている言葉が示しているのは、一般的な意味の大人ではなくて、キリストにある大人、成熟した人ということです。ですから、私たちが、何かを判断をする時、キリストにある大人として、キリストにある成熟した人として、判断するようにしなさい、ということです。そのために私たちには、人生の地図、人生のカーナビが与えられています。聖書の言葉です。聖書の言葉を心に蓄え、そこから、考え、判断していくのです。
 21節以下には、先週の聖書個所に続いて、異言と預言のことが取り扱われています。コリントの教会の中の異言を強調したい人たちに対して、パウロは、キリストにある大人として、成熟した人として、正しく判断するように、と語っています。パウロは、異言よりも預言を強調しました。預言とは、説教であり、聖書の言葉の解き明かしのことです。23節からお読みします。
14:23 教会全体が一緒に集まり、皆が異言を語っているところへ、教会に来て間もない人か信者でない人が入って来たら、あなたがたのことを気が変だとは言わないでしょうか。14:24 反対に、皆が預言しているところへ、信者でない人か、教会に来て間もない人が入って来たら、彼は皆から非を悟らされ、皆から罪を指摘され、14:25 心の内に隠していたことが明るみに出され、結局、ひれ伏して神を礼拝し、「まことに、神はあなたがたの内におられます」と皆の前で言い表すことになるでしょう。
 異言というのは、どこかの外国語のように聞こえる言葉で、普通には理解できない言葉です。ですから、教会の集会の中で、異言が語られることがあったら、教会に初めて来た人などはとても驚いてしまいます。しかし、預言が語られるならば、つまり、聖書の言葉が解き明かされるならば、聞いた人は、自分の罪が示され、悔い改めへと導かれるのです。
 パウロは、キリストを信じる人は、キリストにある大人として、成熟した人として、物を考え、判断するように、と言いました。26節では、このように言っています。
14:26 兄弟たち、それではどうすればよいだろうか。あなたがたは集まったとき、それぞれ詩編の歌をうたい、教え、啓示を語り、異言を語り、それを解釈するのですが、すべてはあなたがたを造り上げるためにすべきです。
 「すべてはあなたがたを造り上げるためにすべきです」とありました。これは、教会に連なるあなたがたは、何をするにも、あなたがた自身を、つまり、教会を造り上げるためにしなさい、ということです。あなたがたが、キリストにある大人として、成熟した人として、物を考え、判断していくことによって、あなたがた自身が、教会が造り上げられていくのだ、というのです。
 31節には、このようなことが語られていました。
14:31 皆が共に学び、皆が共に励まされるように、一人一人が皆、預言できるようにしなさい。
 聖書の言葉が解き明かされていくことで、みんなが共に学び、共に励まされていきます。私たちの教会もいよいよ今年度から、教会学校が再開されていくことと思います。繰り返しますが、聖書の言葉が、神さまのみ言葉が私たち教会を造り上げていきます。
 そして、33節には、神さまは無秩序の神ではなく、平和の神と語られています。
14:33 神は無秩序の神ではなく、平和の神だからです。
 神さまは、無秩序であったり、混乱させたりするような神さまではなく、平和の神さまと言われています。イエスさまは、山上の説教の中で、こう言われました。「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる」(マタイ5章9節)。これは、神さまの子、神さまを信じるあなたがたは平和を実現することに努めなさい、ということです。よく教会においでになった人から、質問されることは、神という方は愛の方、平和の方だというけれど、なぜ、神は戦争を起こすのですか?戦争を放置するのですか?ということです。でも、戦争を起こすのは、神さまでしょうか?いいえ、戦争を起こすのは、私たち人間です。私たち人間の罪が戦争を起こすのではないでしょうか?ですから、私たちは、あの国やこの国のこと、政治家、指導者のことだけでなく、私たちも自分の身近なところで、自分自身が小さな戦争を起こしていないだろうか?と自分自身をかえりみる必要があると思います。そして、平和が実現すること、平和を造り出すことに努めていきたい、祈っていきたいと思います。

(むすび)
34節以下には、婦人たち、教会の女性たちに向けて語られた言葉があります。この聖書個所を根拠にして、教会で女性が聖書の言葉を語ってはいけない、とか、女性が牧師になってはいけない、と解釈して、女性に説教をさせない、女性を牧師として立てない、という教会や教団があります。聖書の解釈は様々で、私たちの聖書の読み方、解釈は決して、間違いのない、完全なものというのではなく、神さまの目には、どれも不完全だと思います。そういう不完全な私たちが神さまに赦されて、語らせていただいていると私は信じていますが、しかし、この箇所で言われていることは、女性が聖書を語ってはいけないとか、牧師として立ってはいけない、ということではないと思います。おそらく、パウロは、このコリントの教会の中で、ある女性たちが秩序を乱すことをしたために、そのことについて、厳しく語ったのだ、と思います。例えば、集会の時、ある人が聖書の解き明かしをしている最中に、話し出したり、質問をしたり、ということがあったのではないでしょうか。
このように、パウロは、異言を強調する人たちだけでなく、預言をする人たち、すなわち、神さまの言葉を解き明かす人たちについても、やはり、秩序をもって、語るように教えています。29節には、このようなことが語られています。
14:29 預言する者の場合は、二人か三人が語り、他の者たちはそれを検討しなさい。
 神さまの言葉が解き明かされたら、それを検討するように、と言われています。口語訳聖書では、「吟味すべきである」となっていました。語られた言葉について、本当に正しく神さまの言葉が解き明かされているのかどうか、そのことを検討しなさい、吟味しなさい、というのです。牧師など、説教の働きを託されている者にとっては、襟を正される言葉です。私は、この言葉を思う時、教会の皆さんには、不完全な、小さな器であるこの私のために、祈っていただきたい、み言葉を十分に、正しく解き明かすことができるように、語り伝えることができるように、祈っていただきたい、と願います。私たちは、祈り、祈られて、また共にみ言葉を聞くことによって、キリストにある幼子から、キリストにある大人へ、キリストにある成熟した人へと成長していくのです。

祈り
恵み深い主なる神さま
 パウロが一心に語ったこと、それは、教会を造り上げるためにはどうしたらよいか、ということでした。そのためには、神さまの言葉に聞き続けること、従い続けることです。
 み言葉を聞くこと、語ることについても、検討すること、吟味することが教えられていました。み言葉を聞く者自身、語る者自身が、正しくみ言葉を理解しているか、み言葉に生きているかが問われます。
 み言葉を共に学び合い、励まし合い、主にある大人、成熟した人となっていきますように、私たちを導いてください。
私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン

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