【礼拝説教】2023年5月28日「キリストの復活を信じる」
聖書―コリントの信徒への手紙一15章12~19節
(はじめに)
今日は、教会の暦では、ペンテコステの日です。教会の暦では、三つの大きな記念の日、お祝いがあります。一つは、クリスマスです。神さまがご自分の大切なみ子イエスさまを私たちのところにお送りくださった日です。そのことを記念して、12月には、毎年、イエスさまが来てくださってありがとうございます!とお祝いします。もう一つは、イースターです。神さまのみ子イエスさまが、私たちを罪から救うために十字架にかかって死んでくださいました。けれども、イエスさまは死んで終わりではありませんでした。それから三日目に復活されました。そのことを記念して、イースターおめでとうございます!とお祝いします。
さて、三つ目の記念の日、お祝いですが、それは、最初に言いましたペンテコステです。ペンテコステというのは、ギリシア語で第五十番目という意味です。これはイースターの日から数えて五十日目の日です。その日に、神さまがイエスさまを信じる人たちのために、聖霊をお送りくださって、イエスさまを信じる人たちは、聖霊、神さまの力ということです。神さまの力によってキリスト教会が始まった日です。ですから、ペンテコステは、キリスト教会の誕生日とも言います。
今日は、礼拝の前の時間、この三年の間、新型コロナウイルスの大流行のために、お休みしていた教会学校が再開されました。ちょうどその日が、ペンテコステ、キリスト教会の誕生日というのは、とてもよいタイミングだと思います。教会学校には、皆さんも積極的に参加していただいて、神さまの言葉である聖書を一緒に学んで、神さまから生きる力をいただいて歩んでまいりましょう。
(聖書から)
今日お読みしました聖書の言葉は、コリントの信徒への手紙一15章12~19節です。12、13節をお読みします。
15:12 キリストは死者の中から復活した、と宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死者の復活などない、と言っているのはどういうわけですか。15:13 死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです。
先ほど、イースターのことをお話ししましたが、イエスさまは、私たちを罪から救うために十字架にかかって死なれました。けれども、三日目に復活されました。今お読みしたのは、コリントの教会の人たちの中に、イエスさまが復活されたことは信じているけれども、死者の復活は信じていない、という人たちがいて、パウロは、その人たちに、あなたたちはイエスさまが復活されたことを信じているのに、どうして、死者の復活は信じないのですか?と言っているのです。
イエスさまを信じる私たちは、イエスさまが復活されたことを信じています。すると、「そんな馬鹿なことを信じているのか?」と言われることがあります。これは仕方がないことです。なぜなら、イエスさまが復活された、というのは、人間の常識、考え、思いを超えた出来事だからです。
先週お読みしました聖書には、復活について、このように書いてありました。
15:3 最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、15:4 葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、
イエスさまが十字架にかかって死なれたこと、三日目に復活されたこと、そのことについて、繰り返し、「聖書に書いてあるとおり」と語られています。私たちは、イエスさまが復活されたことを、この目で見たわけではありません。ここに「聖書に書いてあるように」とありました。聖書が、イエスさまの十字架と復活について書いてあるから。これは神さまがなさった出来事だと、この聖書の言葉を信頼して、受け入れているのです。
コリントの教会の人たちも同じでした。聖書の言葉を信頼して、受け入れて、イエスさまが復活された、と信じていました。ところが、その中には、死者の復活は信じない、という人たちもいたのです。ところで、死者の復活というのは、何かと言いますと、私たち人間は、いつの日か死にます。この地上で、どんなに長生きしても、今の時代は百歳でしょうか、百歳を超える人たちは増えてきましたが、何百年も生きる人、永遠に生きる人はいません。病気や事故などいろいろなことで私たちは、いつかは死にます。ところが、聖書は、死者の復活があると語ります。一か所、読んでみます(一テサロニケ4章14節)。
4:14 イエスが死んで復活されたと、わたしたちは信じています。神は同じように、イエスを信じて眠りについた人たちをも、イエスと一緒に導き出してくださいます。
ここに「イエスを信じて眠りについた人たち」とあります。これは、イエスさまを信じて、死んだ人たちということです。死んでいるのに、眠っている、と書いてあります。眠っているというと、いつか起きるわけですが、それは、終わりの日に、神さまは死んだ人たちを復活させてくださる、ということです。しかし、コリントの教会のある人たちは、イエスさまは神さまだから復活されたけれど、私たち人間は、死んだら終わりだ。復活するはずがない。そう考えていた人たちがいたのです。
14、15節をお読みします。
15:14 そして、キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です。15:15 更に、わたしたちは神の偽証人とさえ見なされます。なぜなら、もし、本当に死者が復活しないなら、復活しなかったはずのキリストを神が復活させたと言って、神に反して証しをしたことになるからです。15:16 死者が復活しないのなら、キリストも復活しなかったはずです。
キリストの復活は信じているけれど、死者の復活、つまり、自分たちが復活することは信じていない人たちがいた、とお話ししましたが、パウロは、キリストの復活と死者の復活は別々の話ではない、と言っているのです。キリストが復活されたことによって、神さまは、キリストを信じているあなたがたもやがて終わりの日に復活する、と示されたのです。だから、復活を信じない宣教、復活を信じない信仰は無駄である、無意味だ、と言うのです。
17、18節には、このようなことが書いてありました。
15:17 そして、キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります。15:18 そうだとすると、キリストを信じて眠りについた人々も滅んでしまったわけです。
キリストが復活された。そのことによって、私たちに二つのことが恵みとして与えられました。一つは、先ほどお話ししましたように、キリストを信じる者は、終わりの日に復活するということです。もう一つは、17節に「罪の中にある」とありましたが、キリストが復活したことによって、キリストを信じる者は、罪の中から救い出された、ということです。復活はない、というのは、私たちも復活することはないし、罪の中に留まったままだ、ということになるのです。さらには、ここに書いてありますように、私たちよりも先に死んだ人たちは、もう復活することなく、滅んでしまった、ということになる、というのです。
(むすび)
私の父は牧師でした。父が生きていたころ、子供時代の私は時々、信仰のこと、聖書のことで質問することがありました。私は、この復活ということについては、イエスさまを信じていながらも、なかなか信じられない、ということがありました。復活は、事実ではないだろう。イエスさまという素晴らしい神の人が私たちのために十字架につけられて死んだ。その思い出をずっと忘れないで、イエスさまの生きざま、遺志に従っていく。それが復活ということだ。そんなふうに考えていたこともありました。ある時、父に復活について質問しました。父は、ある聖書の言葉を示して、そこから、考えてみてほしい、と言いました。それが、実は今日お読みした聖書の個所なのです。特にこの中の14、15、19節です。
14、15節には「そして、キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です。更に、わたしたちは神の偽証人とさえ見なされます。なぜなら、もし、本当に死者が復活しないなら、復活しなかったはずのキリストを神が復活させたと言って、神に反して証しをしたことになるからです」とありました。一言で言えば、復活がなければ、イエスさまを伝えている人、イエスさまを信じている人というのは、嘘つきということになります。しかし、ここでパウロは、私は復活を信じている。私が伝えていること、信じていることは決して嘘ではない、と言っていると思います。
そして、19節です。
15:19 この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、わたしたちはすべての人の中で最も惨めな者です。
復活はない、というならば、そういう信仰というのは、どういうものになるでしょうか?「この世の生活でキリストに望みをかけているだけ」とありました。生きている時だけ、役に立つ神さまということでしょうか?一般的に言われるご利益信仰、宗教というものでしょうか?しかし、パウロは、そんな信仰、宗教なら、私たちはすべての人の中で最もみじめな者だ、と言っているのです。
私は、父が示してくれたこれらの聖書の言葉を読んで、パウロが、本気でキリストの復活、死者の復活を信じていたことを知らされ、私もこのパウロの言葉、証言と言ったらよいと思いますが、この言葉を信じていこう、この言葉に賭けていこうと思ったのです。
繰り返しますが、復活というのは、人間の常識、考え、思いをはるかに超えた出来事です。科学的に証明することはできません。復活を信じた人たちは、復活を語る聖書の言葉を信頼して、受け入れていったのです。イエスさまは、ご自分の復活を信じられなかったトマスに自ら現れてくださり、語られた言葉はこういう言葉でした。「見ないのに信じる人は、幸いである」(ヨハネ20章29節)。見ないで信じる信仰、神さまが言われたこと、神さまがなさったことは本当だ、と信じる信仰、イエスさまが私たちに求めておられる信仰はこの信仰だと思います。
祈り
恵み深い主なる神さま
キリストの復活、死者の復活、そのことは聖書が語っていることです。私たちの常識、考え、思いからすると、とても信じられないことですが、神さまが私たちに示され、また求められる信仰は、見ないで信じる信仰、神さまが言われたこと、神さまがなさったことは本当だ、と信じる信仰です。
今日はペンテコステ、教会の誕生日についても触れましたが、教会は聖霊によって、神さまの力によって始まりました。聖霊によって、イエスさまが救い主であること、十字架と復活のみわざをなさり、私たちを罪と死から救い出してくださる方であることを信じることができますように助けてください。
私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン
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