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初夏の山

「福音の使者のために祈ろう」エフェソの信徒への手紙6章10~24節 2024/ 4/28 SUN.

「福音の使者のために祈ろう」エフェソの信徒への手紙6章10~24節 2024/ 4/28 SUN. 赤塚教会礼拝説教

聖書―エフェソの信徒への手紙6章10~24節
(はじめに)
礼拝の第三週、第四週では、エフェソの信徒への手紙を読んでまいりました。今日は、その最後の個所になります。このエフェソの信徒への手紙は、冒頭の個所(1章1節)にありますように、使徒パウロが書いた手紙と言われます。最近の研究では、パウロではなく、パウロの信仰を受け継いだ人が書いたものと言われていますが、この手紙を読み進めていきますと、やはりパウロがエフェソの教会のことを思いながら、祈りつつ、書いたもののように思えてなりません。

(聖書から)
 今日お読みしたのは、6章10節以下の言葉です。まず、10節をお読みします。
6:10 最後に言う。主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。
 「強くなりなさい」とあります。この言葉を聞くと、私たちは、自分が強くならなければならない、と言われているように聞こえるかもしれませんが、ここで言われている「強くなりなさい」というのは、自分の弱さを知り、主に頼るようにしなさい、主の力に支えられなさい、ということが言われているのです。
 「主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい」。それは、自分が弱い間だけのことではありません。神さまに頼らなくてもいいほどにこれからはもっと強くなりなさい、ということが言われているのではないのです。私たちは、一生涯、神さまに頼って生きていくのです。神さまの前には、いつまでも、どこまでも弱い、小さい私たちです。その私たちは、いつまでも、どこまでも神さまを頼りとし、神さまと共に生きる。それが、聖書が示す信仰です。
 「主に依り頼み、その偉大な力によって」。そのことが、次の11節では、このような言葉で言い表されています。
6:11 悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。
 「神の武具を身に着けなさい」。神さまの武具を身に着ける。どういうことでしょうか?この後の言葉から、そのことについて聴いていきたいと思いますが、「悪魔の策略に対抗して立つことができるように」ともありました。悪魔というのは、私たちを神さまから引き離すものです。イエスさまが祈りを教えられた個所があります。「主の祈り」と言われるものですが、その中で、イエスさまは、このように祈るようにと教えておられます。「わたしたちを誘惑に遭わせず、/悪い者から救ってください」(マタイ6章13節)。「悪い者から救ってください」とあります。私たちに対して、悪魔が、悪い者が挑んできて、私たちを神さまから引き離そうとするのです。
 先日、私の神学校時代の先生で、カール・バルトの研究者である寺園喜基先生が、カール・バルトの『教会教義学』をまとめた本(『カール・バルトの《教会教義学》の世界』)を出されたということで、出版記念会が行われました。その記念会で寺園先生が講演された原稿が入手できました。さっそくそれを読んでみましたが、とても印象に残った内容がありましたので紹介したいと思います。

「私たちはバルトから、全ての人のために起こった普遍的な和解の出来事を聞きました。神との和解には人間と人間との、人間同士の和解も含まれているはずです。しかし現在の世界の状況を見るとき、和解のメッセージは偽善ではないだろうか、という人がいるかもしれません。和解ではなく分断が、平和ではなく戦争が世界を覆っている今、『正直に考えるならば和解の福音を語るのは誤魔化しである』、と言いたい気持ちになるかもしれません。ウクライナで、ガザで、何千何万の人々が傷つき殺されているのを見るとき、『神は何処にいるのか、神は戦争を許しているのか』、と問いたくなるのも偽りのない気持ちです。しかし、このような考えは人間的には、気持ちの上では、正直であったとしても、神の前では間違っています。神の意志は戦争ではなく平和です。私たちが非難しなければならないのは、私たち自身であって神ではありません。」(寺園喜基先生の講演「バルト神学から現代を問う」からの引用)

 ただいまお読みした内容を、繰り返しになりますが、少しかみ砕いて言いますと、バルト神学の中心と言えるのは、和解論です。和解とは、神さまと人間の和解のことです。しかし、それは神さまと人間の和解だけでなく、人間と人間の和解も含まれます。けれども、今の世界の情勢を見ると、和解とは真逆のことばかりが起こっているように思えます。世界各地で、次々と戦争の声を聞きます。私たちも、「神さまは本当にいるのですか?神さまは戦争を見過ごされるのですか?神さま、あなたはいったい何をなさっているのですか?」と神さまに問いたくなりますが、寺園先生が言われたのは、神さまは戦争を望んではおられない。神さまが望んでおられるのは平和である。戦争を起こしているのは、私たち人間の方である。むしろ、今、私たちが神さまから問われている、ということです。
 戦争が起こり、災害が起こると、私たちは、神さまが悪い、と考えてしまう。神さまを疑ってしまう。そして、神さまから離れそうになってしまう。しかし、そうではなくて、その時、私たちは、神さまから、自分の生き方、あり方を問われているのです。今、この時代にあって、私たちはどうしたらいいのでしょうか?苦しみにある人たちを前に、私たちは何をしたらいいのでしょうか?
12節をお読みします。
6:12 わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。
 「わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく」とありました。血肉というのは、人間のことです。人間は戦う相手ではないのです。私たちが、人間を敵と定めて、戦っている時というのは、それこそが悪魔の策略にはまっている時と言えるでしょう。
 さて、神さまの武具とは何でしょうか。13節以下の言葉からそのことが教えられます。
6:13 だから、邪悪な日によく抵抗し、すべてを成し遂げて、しっかりと立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。6:14 立って、真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着け、6:15 平和の福音を告げる準備を履物としなさい。6:16 なおその上に、信仰を盾として取りなさい。それによって、悪い者の放つ火の矢をことごとく消すことができるのです。6:17 また、救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。6:18 どのような時にも、“霊”に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。
 真理、正義、平和の福音、信仰、救い、神さまの言葉、そして、祈りについて言われていました。これらのものが神さまの武具です。私たちはこれらのものを身に着けて、悪しき者から守られるようにするのです。
 祈りについて、このようなことが語られていました。「“霊”に助けられて祈り」。聖霊の助けによって祈る、ということです。ローマの信徒への手紙8章26節には、「“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださる」とあります。私たちは、祈ろうとしても、何をどう祈ったらいいのか分からない、と戸惑ってしまうことがあります。神さまの前に立つ時、私たちはみんなそうだと思うのです。自分の生き方、あり方を探られる。周りのことには無関心で、自分のことばかり考えてしまう自分に気づかされる。心が弱っていて祈ることができないでいる自分・・・。しかし、そういう私たちを、聖霊なる神さまは助けてくださるのです。私たちを神さまとの関係に生きることができるように執り成してくださる、間を取り持ってくださる。私たちに何を祈ったらいいのか教えてくださり、祈る心、祈りたいという思いを与えてくださり、祈りへと導いてくださるのです。

(むすび)
 パウロは、エフェソの教会の人たちに、自分のために祈ってほしい、と言っています。
6:19 また、わたしが適切な言葉を用いて話し、福音の神秘を大胆に示すことができるように、わたしのためにも祈ってください。6:20 わたしはこの福音の使者として鎖につながれていますが、それでも、語るべきことは大胆に話せるように、祈ってください。
 パウロは、「わたしのためにも祈ってください」と言いました。私たちも、このように言い合える関係でありたいと思います。「私のために祈ってください。私もあなたのために祈ります」。互いに祈り合い、歩んでいく教会でありたいと思います。
 パウロは、「福音の使者として鎖につながれています」と言っています。パウロは、この時、獄中にいたと言われています。ですから、このエフェソの信徒への手紙は、獄中書簡とも言われます。パウロは、福音を伝える働きのために捕らえられた、ということです。
 ここで、パウロは、自分のことを「福音の使者」と言っています。「使者」という言葉は、別の訳では、「使節」(口語訳)、「大使」(新改訳)とも訳されています。東京には、世界中の大使館があります。大使というのは、それぞれの国の代表として派遣された外交官ですが、私たちも、神さまから派遣された福音の大使、キリストの大使、そして、神の国の大使です。人々は、私たちを通して、福音を知るのです、キリストを知るのです。どうか、主が私たちを豊かに用いて、福音を語り、キリストを示すことができますように互いに祈りつつ歩んでまいりましょう。

恵み深い私たちの主なる神さま
  使徒パウロは、福音の使者、大使として、神さまから派遣された、と言いました。私たちも同じです。神さまは、私たちに、福音を伝える、キリストを伝えるという大切な働きを託されました。
 私たちが、世のただ中を歩む時、悪魔の策略、誘惑に遭うことがありますが、どうか、主の守りがありますように。そして、私たちを福音の使者としての働きを行っていく者として導いてください。
 私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン

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