【礼拝説教】2023年8月13日「それでも愛し続けられた方」
聖書―マタイによる福音書8章28~34節
(はじめに)
イエスさまは、ご自分の弟子たちに、向こう岸に行こう(18節)と言われました。ガリラヤ湖を前にして言われたのです。向こう岸というのは、弟子たちにとっては、自分たちの知らない土地へ行くということでした。知らない土地に行くというのは、不安だったと思います。でも、イエスさまが一緒だから大丈夫。そう信じて、イエスさまと一緒の舟に乗り込んだのです。
先週お読みしました聖書個所では、湖に激しい嵐が起こったことが書かれていました。弟子たちは、イエスさまと一緒でしたが、舟は波に呑まれそうになり、恐ろしくて仕方がありませんでした。そこで彼らは眠っているイエスさまを起こして、「主よ、助けてください。おぼれそうです」(25節)と言ったのです。私たちも、イエスさまにお祈りする時、「イエスさま、私は人生の嵐に遭っておぼれそうです。助けてください!」と祈ることがあるかもしれません。
イエスさまは、弟子たちの叫ぶ声を聞いて、起き上がって、風と湖をお叱りになりました。すると、凪になったというのです(26節)。イエスさまは、私たちの祈り、叫ぶ声にも耳を傾けてくださいます。ですから、どんな時も祈り続けていきましょう。
聖書の言葉をお読みします。フィリピの信徒への手紙4章6、7節です。
4:6 どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。4:7 そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。
「神に打ち明けなさい」とあります。私たちは、何でも神さまに打ち明けていきましょう。何でも神さまに申し上げて、お祈りしていきましょう。そうするなら、私たちに神さまの平和が与えられると、この聖書の言葉は約束しています。
(聖書から)
今日は、イエスさま一行が向こう岸に到着した時の話が書かれていました。
8:28 イエスが向こう岸のガダラ人の地方に着かれると、悪霊に取りつかれた者が二人、墓場から出てイエスのところにやって来た。二人は非常に狂暴で、だれもその辺りの道を通れないほどであった。
「向こう岸のガダラ人の地方」とあります。イエスさまと弟子たちにとっては、そこは異邦の地、外国の地でした。イエスさまがその地に到着されると、悪霊に取りつかれた者が二人、墓場から出てイエスさまのところにやって来た、というのです。この二人については、非常に狂暴で、誰もその辺りの道を通れないほどだった、とも書かれています。
悪霊に取りつかれていた、というのは、どういうことでしょうか?おそらく、皆さんが、悪霊ということを聞くと、いろいろなイメージをお持ちになると思います。しかし、私たちは、自分が持っているイメージをひとまず置いて、聖書に書かれていることから、聞いていきたいと思います。
聖書から分かることは、悪霊に取りつかれた者たちは、墓場から出てきた、ということ、非常に狂暴であった、ということです。これらのことから考えられるのは、この人たちというのは、人々から、社会から離れていたところにいた、ということです。そういう彼らのことを、人々は、「彼らは悪霊に取りつかれた人だ」と言っていたのかもしれません。次の29節には、彼らの言葉が書かれています。
8:29 突然、彼らは叫んだ。「神の子、かまわないでくれ。まだ、その時ではないのにここに来て、我々を苦しめるのか。」
悪霊に取りつかれた人、いいえ、悪霊の叫びは、このようなものでした。「神の子、かまわないでくれ。まだ、その時ではないのにここに来て、我々を苦しめるのか」。イエスさまに向かって、「神の子、かまわないでくれ」と言っています。イエスさまのことを「神の子」と言っているのです。イエスさまが誰であるか、彼らは知っていました。しかし、こうも言っています。「かまわないでくれ」。
この「かまわないでくれ」という言葉は、別の訳では「あなたはわたしどもとなんの係わりがあるのです」(口語訳)となっています。神の子、イエスさま、あなたは私たちとは何の関わりもない、関係ない、と言っているようです。つまり、悪霊というのは、イエスさまのことは知っているけれど、イエスさまとは関係ないと言っている。イエスさまとの関係を拒絶しているということが分かります。
続いて、このようにも言っています。「まだ、その時ではないのにここに来て、我々を苦しめるのか」。ここで「その時」というのは、世の終わりの時、神さまの救いの完成の時のことです。それは、悪霊にとっては、自分たちを苦しめる時だというのです。
イエス・キリストを救い主と信じる人にとっては、「その時」、世の終わりの時、神さまの救いの完成の時というのは、自分たちを苦しめる時ではありません。「その時」というのは、イエスさまを救い主と信じる者にとっては、むしろ、喜びの時なのです。ではどうして、喜びの時と言えるのでしょうか?私たち人間は、神さまの前には、誰一人正しい者ではなく、すべての人は罪人です。しかし、そういう私たちを罪から救うために、神さまのみ子であるイエスさまが十字架にかかってくださったのです。本当は罪によって裁かれなければならない私たちがイエスさまの救いのみわざにより、罪から救われ、赦されたのです。そのことを世の終わりの時には、はっきりと知ることになるのです。
それに対して、聖書から知らされる悪霊というのは、神さまのことは知っているけれども、神さまと関わりを持たない、関係ない、と言っているように、人に神さまとの関わりを持たせないようにするものなのです。また、墓場にいた、とか、狂暴であった、とありますように、人々との関わりを妨げてしまう。つまり、悪霊というのは、人を、神さまから、そして、人々から引き離してしまうものなのです。
悪霊はイエスさまに会うことを大変嫌がりました。そして、イエスさまにこのようなことを願います。
8:30 はるかかなたで多くの豚の群れがえさをあさっていた。8:31 そこで、悪霊どもはイエスに、「我々を追い出すのなら、あの豚の中にやってくれ」と願った。
豚の群れのことが出ていますが、豚を飼っていた人がいたのでしょう。悪霊は、イエスさまに、自分たちをこの人たちから追い出すなら、豚の中にやってくれ、と願いました。イエスさまが、悪霊に取りつかれている人たちから、追い出すことを分かっていて、そう言ったようです。
8:32 イエスが、「行け」と言われると、悪霊どもは二人から出て、豚の中に入った。すると、豚の群れはみな崖を下って湖になだれ込み、水の中で死んだ。
イエスさまは、二人の人から、悪霊を追い出します。「行け」とイエスさまが言われると、悪霊は二人から出ていき、豚の中に入りました。しかし、豚の群れは崖を下って湖になだれ込み、水の中で死んでしまった、というのです。
これらの出来事を、豚飼いたちは見ていたのでしょう。人々に知らせています。
8:33 豚飼いたちは逃げ出し、町に行って、悪霊に取りつかれた者のことなど一切を知らせた。
お読みしましたマタイの記事では、詳しく書かれていませんが、マルコ(マルコ5章1~20節)やルカ(ルカ8章26~39節)では、悪霊に取りつかれていた人が、イエスさまが悪霊を追い出したことにより、正気になった、ということが書かれています。おそらく、豚飼いの人たちは、そのことも含めて、この出来事の一部始終を町中の人たちに知らせたのでしょう。それを聞いた町中の人たちはどのように反応したのでしょうか。
8:34 すると、町中の者がイエスに会おうとしてやって来た。そして、イエスを見ると、その地方から出て行ってもらいたいと言った。
悪霊に取りつかれていた人たちが、イエスさまによって、悪霊から解放された。正気になった彼らは、墓場にいましたが、町の中に、人々の中に戻ってきたと思います。狂暴であった、とありましたが、町の中の人々との交わりにより、心が静められて、暴力的なことをすることもなくなったと思います。それで、悪霊に取りつかれていた人がイエスさまによって、悪霊から解放され、生き方が変えられた!そのことを知って、町中の人々が感激して、イエスさまに会いにやって来たのでしょうか?いいえ、そうではありません。このように書いてあります。「イエスを見ると、その地方から出て行ってもらいたいと言った」。
イエスさまに、この町から出ていってもらいたい、と言っています。なぜ、そう言ったのでしょうか。豚飼いに大きな損失を与えたからです。マルコによる福音書には、二千匹の豚が死んだことが書かれています(マルコ5章13節)。悪霊に取りつかれていた二人を、イエスさまが助けた、解放した。そのことよりも、大量の豚が死んでしまった。その経済的な損失の方が彼らにとっては、大きな関心事だったのです。
(むすび)
町中の人たちが、イエスさまに会いに行きました。しかし、彼らは、イエスさまが悪霊に取りつかれた人たちを救ったことには、無関心で、その時に起こった大量の豚のことでイエスさまを邪魔者扱いし、この町から出ていくように、と言いました。これは、悪霊がイエスさまに会った時に言った言葉と重なります。「神の子、かまわないでくれ」、「あなたはわたしどもとなんの係わりがあるのです」(口語訳)。
この後の9章1節には、このようなことが書かれています。
9:1 イエスは舟に乗って湖を渡り、自分の町に帰って来られた。
結局、イエスさまは、町の人たちに追い出されるような形で、自分の町に帰られた、ということです。これは、とても残念なことですが、大量の豚を死なせてまでも、二人が救われた、というのは、町の人たちにとっては、割に合わない話だったのでしょう。けれども、イエスさまのことを考えてみると、どうでしょうか?イエスさまは、二人の人を救うために、わざわざ向こう岸に渡られたのです。その途上では、激しい嵐にも遭いました(23~27節)。大変な思いをして、向こう岸に渡り、そこで悪霊に苦しんでいた二人に出会い、悪霊を追い出し、彼らを正気に戻し、新しい人生に生きることを導かれたのです。しかも、そのことで何も評価されることも、歓迎されることもなく、出ていくように、と言われ、この町を去って行かれたのでした。このようにイエスさまの福音宣教の働きというのは、決して華やかなものではなく、また常に成功を収めるというものでもありませんでした。しかし、イエスさまは、人々の救いのために、この働きを続けられたのです。イエスさまは、拒絶されても、追い出されても、それでも一人一人を愛し続けられたから、あきらめなかったのです。変わることのない主の愛。私たちもこの愛によって救われ、生かされていることをおぼえ、新たにイエスさまに出会う方がありますように祈りつつ、主の後に従っていきたいと思います。
祈り
恵み深い主なる神さま
イエスさま一行が向こう岸に渡り、そこで出会った人たちを救ったことが書かれていました。しかし、その救いの出来事は、町の人たちには、何の関心も持たれず、むしろ、イエスさまのせいで大きな損失を出すことになったから、と町を追い出されることになってしまいました。
福音宣教の働きは、神さまから委託された尊い働きですが、人々からは、理解されず、歓迎されず、拒絶されるようなことさえあります。しかし、イエスさまは、それでも一人一人に対する愛をもって、この働きを続けられました。私たちも、自分に向けられた主の愛、そして、人々に向けられた主の愛を思いながら、この働きを続けていく者としてください。
私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン
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