【礼拝説教】2023年9月17日「主よ、来てください」
聖書―コリントの信徒への手紙一16章13~24節
(はじめに)
お読みしました聖書個所は、コリントの信徒への手紙一です。今日は、その最後の個所をお読みしました。新共同訳聖書は、この箇所に「結びの言葉」という小見出しを付けています。
私は、このコリントの信徒への手紙から説教の準備をする時、その書名に「手紙」と付けられていますので、自分がこの手紙の宛先であるコリントの教会のつもりで、読んできました。そして、この手紙の送り手であります使徒パウロが、どのような思い、どのような気持ちで、この手紙を書いたのか、想像してみました。聖書の言葉が、今、この私に語られている神さまの言葉であると信じて、読んでいく、聴いていくことは大切なことです。
(聖書から)
さて、お読みしました聖書個所の最初の言葉を読んでみます。
16:13 目を覚ましていなさい。信仰に基づいてしっかり立ちなさい。雄々しく強く生きなさい。16:14 何事も愛をもって行いなさい。
「目を覚ましていなさい」。この言葉は、新約聖書の中では、何度も出てくる言葉です。しかし、その多くは、イエスさまが語られた言葉として、福音書に書かれています。目を覚ましていなさい、というのは、信仰の目を覚ましていなさい、ということです。けれども、私たちは、眠ってしまう。信仰の目が閉じられてしまうのです。世のただ中を歩む、目に見える現実の中を歩む時、神さまがいないかのように思ってしまう。それが、信仰の目が閉じられてしまう、ということです。この手紙を書いたパウロ自身、そういうことが度々、あったと思います。だからこそ、コリントの教会の人たちに向かって、信仰の目を覚ましていこう、と言っているのではないでしょうか。
毎週水曜日の夜、祈祷会を行っています。主にある兄弟姉妹と一緒に聖書に聴くこと、主にある兄弟姉妹と一緒に祈ること、私はそのことを通して、信仰の目が呼び覚まされます。確かに主は私たちと共におられる。一緒に祈る兄弟姉妹の祈りの言葉を聞く時、信仰の目が呼び覚まされます。
「信仰に基づいてしっかり立ちなさい」という言葉が続いています。イエスを主と信じている者にとっては、この言葉は当たり前のことのように思いますが、私たちは、本当に信仰に基づいて立っているでしょうか?イエス・キリストへの信仰、信頼ではなくて、別のことに基づいて立っているようなことがある。自分たちの力、知恵といったものに基づいて立ってしまっているようなことがあるのではないでしょうか。
「雄々しく強く生きなさい」。「雄々しく強く・・・」とありますと、クリスチャンは強くなければならない、強い精神力を持たなければならない、ということを考えるかもしれません。この強くなる、ということについて、幾つか別の聖書の言葉から聴いてみたいと思います。
まず一つは、テモテへの手紙二2章1節です。
2:1 そこで、わたしの子よ、あなたはキリスト・イエスにおける恵みによって強くなりなさい。
このテモテへの手紙というのも、使徒パウロの書き送った手紙と言われています。パウロが、自分の弟子であるテモテに書き送った手紙です。パウロは、テモテのことを「わたしの子」と呼んでいます。パウロからすると、テモテという人はまだ若く、その未熟さ、弱さも見えていたことでしょう。そういうテモテのことを心配して、そして、励まして、パウロはこう言っているのです。「あなたはキリスト・イエスにおける恵みによって強くなりなさい」。私たちはどうしたら強くなれるのか、というと、キリストの恵みによることなのだ、というのです。
キリストの恵みによる強さ、このことについて、パウロは、コリントの信徒への手紙二の中で証ししています(二コリント12章7~10節)。
12:7 また、あの啓示された事があまりにもすばらしいからです。それで、そのために思い上がることのないようにと、わたしの身に一つのとげが与えられました。それは、思い上がらないように、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです。12:8 この使いについて、離れ去らせてくださるように、わたしは三度主に願いました。12:9 すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。12:10 それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。
「あの啓示された事」とありますが、これは、何か特別な聖霊体験と言われるものだったようです(二コリント12章1~4節)。しかし、その後に、パウロの体に一つのとげが与えられた、というのです。とげというのは、何かの病気だったようです。病気によって、パウロは体の弱さをおぼえたでしょう。そこで病気が癒されるようにと、パウロは何度も祈りました。すると、神さまから、このような言葉がありました。「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」。
力というのは、神さまの力ということです。あなたの弱さ、その弱さの中に神さまの力が働かれると言われたのです。そして、パウロは、その歩みの中で、自分の弱さの中に働かれる神さまの力を体験したのです。だから、このように言うことができたのです。「わたしは弱いときにこそ強い」。私は弱い。しかし、その弱さの中に、神さまの力が働かれる。神さまがそういう私を立たせてくださる。私たちもそれぞれ何らかの弱さを抱えながら生きていると思います。しかし、その弱さの中に、神さまの力が働かれる。そのことを信じていきたいと思うのです。
今日の個所に戻りまして、もう一つの言葉、「何事も愛をもって行いなさい」とありました。カトリックの本田哲郎神父はこの言葉をこのように訳しています。「すべては、人を大切にする心で行なってください」。神さまに愛されている私たち、神さまから大切な存在とされている私たちは、何事も、愛をもって、人を大切にする心で行っていくのです。
この後、15節以下では、パウロは具体的な名前を挙げています。その中で、17節に書かれていることを読んでみます。
16:17 ステファナ、フォルトナト、アカイコが来てくれたので、大変うれしく思っています。この人たちは、あなたがたのいないときに、代わりを務めてくれました。
「あなたがたのいないときに、代わりを務めてくれました」とあります。聖書協会共同訳では、「あなたがたの足りない分を満たしてくれました」となっています。足りない分を満たす。私たちは、お互いの関係において、自分の、また相手の足りないところ、欠けたところに気づいたら、どうするでしょうか?私たちは、それを満たすように、補うようにするのです。お互いの弱さをおぼえる時、それを補い合い、支え合うのです。キリストの体である教会とは、そういうところです。この手紙の12章には、このような言葉が語られていました(12章26、27節)。
12:26 一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。12:27 あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。
(むすび)
22節をお読みします。
16:22 主を愛さない者は、神から見捨てられるがいい。マラナ・タ(主よ、来てください)。
「主を愛さない者は、神から見捨てられるがいい」。もっと直訳的に言うならば、「主を愛さない者は、呪われよ」(聖書協会共同訳)となります。文字通り受け止めるなら、強烈な言葉ですが、ここで言われている意味は、あなたがたは、神さまを愛さない人にならないで、神さまを愛する人になってほしい!ということです。神さまを愛することについて強い願いが込められた言葉なのです。それに続いて、「マラナ・タ(主よ、来てください)」と語られます。マラナ・タというのは、アラム語で、イエスさまの時代、ユダヤの人々が使っていた言葉です。その意味は、「主よ、来てください」ということです。これは、イエスさまがおいでになって、完全な神さまの愛と義の支配、救いの完成が行われることを待ち望む言葉です。
私たちが生きているこの世界は、神さまのみ心に適ったことが行われているでしょうか?神さまの愛と義が行われているでしょうか?残念ながら、そうとは言えないことばかりのように思えます。世の中のことだけでなく、自分自身の歩みを振り返っても、悔い改めることばかりです。そういう私たちですが、マラナ・タ、主よ、来てください。この言葉は、私たちにとって、希望の言葉であり、祈りの言葉です。
主よ、来てください。この言葉に続いて、私は、イエスさまが教えてくださった「主の祈り」の言葉を祈らされます。主よ、来てください。「御名が崇められますように。御国が来ますように。御心が行われますように、/天におけるように地の上にも」(マタイ6章9、10節)。
今日は、礼拝の中で、敬老のお祝いをいたします。私たちの人生の歩み、その一日一日、神さまが一緒に歩んでくださいました。そして、これからも、神さまは一緒に歩んでくださいます。私たちは、体にも心にも弱さをおぼえる者ですが、弱さを知るからこそ、祈りへと導かれます。私たちの弱さの中に神さまは生きて働いてくださいます。主よ、来てください、と一緒に祈りましょう。天の国において行われているように、私たちの生きるこの地上においても、神さまのみ心が行われますように、私たちの人生が主の愛と恵みを表わすものとなりますように祈りつつ歩んでまいりましょう。
祈り
恵み深い主なる神さま
使徒パウロがコリントの教会に書き送った手紙を読み進めてきました。この手紙が書かれた二千年後の教会にも大切なことが語られていることを知ります。
マラナ・タ、主よ、来てください。二千年来、キリスト教会が主の再臨を待ち望み、祈り続けて来た言葉です。私たちも、この言葉を私たちの祈りの言葉として、主を待ち望みながら、与えられた一日一日を主のみ心を求めて、歩む者としてください。
私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン
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