「泊まる場所がなかった」ルカによる福音書2章1~7節 2023/12/17 SUN.
聖書―ルカによる福音書2章1~7節
(はじめに)
まもなくクリスマスを迎えます。クリスマスは、救い主イエス・キリストの誕生をお祝いする時のことです。お読みした聖書個所について、新共同訳聖書は「イエスの誕生」という小見出しを付けています。イエスさまがお生まれになった。今日は、その聖書個所からご一緒に聴いていきたいと思います。
(聖書から)
イエスさまの誕生が書かれている聖書個所の最初の1節から3節には、このようなことが書かれていました。
2:1 そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。2:2 これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。2:3 人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。
住民登録とあります。私たちの国でも国勢調査というものが五年ごとに行われますが、それと同じようなものと考えてもよいと思います。この住民登録、別の訳では、人口調査(口語訳)となっていますが、そのために人々は自分の出身の町へと旅立った、ということです。住民登録を命じたのは、この時代のローマ皇帝アウグストゥスでした。聖書の舞台であるユダヤは、当時、ローマの支配にありました。イエスさまの父ヨセフも住民登録のために自分の出身の町へ行くことになりました。4、5節にそのことが書かれています。
2:4 ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。2:5 身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。
ヨセフについて、ここには、ダビデの家に属していたこと、ダビデの血筋であったことが書かれています。ヨセフは妻マリアとガリラヤの町ナザレに住んでいました。この時には、マリアは身ごもっていた、ということです。ルカによる福音書には、触れられていませんが、マタイによる福音書には、ヨセフが主の天使から、マリアが聖霊によって身ごもるということが書かれていました(マタイ1章18~25節)。
1:18 イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。1:19 夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。1:20 このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。1:21 マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」1:22 このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。
1:23 「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」
この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。1:24 ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ、1:25 男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった。そして、その子をイエスと名付けた。
私たちは、先々週の礼拝で、主の天使がマリアに、あなたは聖霊によって身ごもる、と告げた、という聖書の個所、「受胎告知」と言われる個所を読みました。一方、ただいまお読みした聖書個所には、主の天使がヨセフに、あなたの妻となるマリアは聖霊によって身ごもった、と告げたことが書かれていました。マリアは主の天使の告げられたことを聞いて、大変驚きましたが、ヨセフもまた、驚いたと思います。しかし、この夫婦は、それぞれに主の天使が告げた言葉、神さまの言葉を受け入れていきました。そして、イエスさまは誕生したのです。
この神さまの言葉を受け入れるというのが、信仰ということです。私たちも、教会に集い、礼拝、教会学校で聖書を神さまの言葉として聴きます。それは、信仰をもって、神さまの言葉として受け入れるということです。そうすると、神さまの言葉は、私たちの人生のただ中で、私たちの生活のただ中で、生きて働かれるのです。
さて、ルカによる福音書の個所に戻ります。住民登録のため、ヨセフとマリアの夫婦は、住んでいるガリラヤの町ナザレから、ヨセフの出身の町であるユダヤのベツレヘムへと旅することになりました。ベツレヘムのことを聖書は、「ベツレヘムというダビデの町」と書いています。それは、イスラエルの王であったダビデの出身地ということを意味します。
ナザレからベツレヘムはどれくらいの距離があったかというと、約140キロだそうです。インターネットでいろいろと調べて見ましたら、自動車で行くなら、約二時間くらいで行ける距離だそうです。しかし、当時は、自動車も、汽車も、飛行機もない時代です。どれほど大変な旅であったでしょうか。しかも、この時、妻のマリアは身ごもっていた、身重であった、ということですから、それは大変な旅になったことと思います。神さまから与えられた大切な命を大事に、大事に注意しながら、旅をしたのだろうと思います。
私は、ヨセフとマリアのベツレヘムへの旅について、どんなに大変なことであったかを想像してみました。それだけでなく、私たちの人生の旅ということを考えたのです。私たちも、それぞれ神さまから命を与えられ、人生の旅を歩むように導かれています。それでは私たちの旅というのはどこへ向かうものなのでしょうか?私たちの旅、それは、神さまの国を目指しての旅です。
私が幼い時、繰り返し、読んだ本があります。それは、『天路歴程』という題名の本でした。イギリスのバプテスト教会の牧師のジョン・バニヤンという人の書いた物語です。もう今は無くなりましたが、ヨルダン社というキリスト教の出版社から出されていて、『クリスチャン旅行記 バンヤンの天路歴程』という題名で子供も読めるように平易な言葉で、たくさん挿絵が入っていました。幼い私にとっては、その文章はやはり難しかったですが、挿絵がとても印象に残っています。クリスチャンという主人公が、破滅の町から様々なところへと旅して、最終的には、天の都にたどりつく、という話です。主人公は、旅の途中では、危険な目に遭ったり、だまされたり、馬鹿にされたりして、苦しい、辛いことを数々体験しますが、神さまの守りと導きによって、天の都、神さまの国にゴールするのです。
私たちの人生も、天路歴程のような旅のようなものです。旅の途中では、私たちもいろいろなことがありますが、忘れてはならないのは、神さまが共におられる、ということです。先ほど、マリアとヨセフにそれぞれ主の天使が聖霊によって子供が生まれる、ということを告げたことをお話ししましたが、天使はマリアにこう言いました。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる」(ルカ1章28節)。天使はヨセフにこう言いました。「『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』この名は、『神は我々と共におられる』という意味である」(マタイ1章23節)。天使は、マリアにも、ヨセフにも、同じことを言っているのです。神さまはあなたと共におられる。この夫婦の旅を支えたのは、この言葉だったのではないでしょうか。神さまは私たちと共におられる。そして、その共におられる神さまこそは、イエスさまだったのです。
ヨセフとマリアの夫婦は、ベツレヘムに到着しました。その時のことが、6、7節に書かれています。
2:6 ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、2:7 初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。
この夫婦がベツレヘムに滞在している時、妻のマリアは月が満ちて、初めての子を産んだ、ということです。そして、その子を布にくるんで飼い葉桶に寝かせた、とあります。この前、あるカトリックのクリスチャンの方とお話ししていましたら、「先生、そろそろうちの教会も馬小屋作りを始めます。先生のところはいつですか?」と言われて、キョトンとしてしまったのですが、聞いてみると、カトリック教会では、クリスマスの時期になると、馬小屋を作って、その中に飼い葉桶と赤ちゃんのイエスさま、マリア、ヨセフ、動物などの置物を飾るのだそうです。イエスさまの誕生を、そういった模型を用意して、目に見える形で、クリスマスをおぼえ、お祝いする。素敵なクリスマスの迎え方だと思いました。
イエスさまがお生まれになったところ、それは、お読みした聖書の言葉に「飼い葉桶」、「宿屋には彼らの泊まる場所がなかった」とあるように、おそらく、宿屋ではなく、飼い葉桶のある馬小屋、家畜小屋で生まれたのだろうと、考えられてきました。「宿屋には彼らの泊まる場所がなかった」。別の訳では、「宿屋には彼らのいる場所がなかった」(新改訳)、「客間には彼らのいる余地がなかった」(口語訳)となっています。ここで言われている「彼ら」というのは、マリアとヨセフ、そして、イエスさまのことでしょう。いる場所がない、居場所がない。そういう状況の中で、そういう環境の中で、私たちの救い主イエスさまはお生まれになったのです。
(むすび)
「宿屋には彼らの泊まる場所がなかった」、「客間には彼らのいる余地がなかった」という言葉を聴いて、私は、これは自分自身、気を付けなければならないことだと思いました。どういうことかというと、ある時は、忙しさのため、またある時は、別のことで頭がいっぱいになって、私の心の中に、私の人生の中に、イエスさまの入る余地がないようにしている、イエスさまの居場所がないようにしているようなことはないだろうか?ということです。私たちは、忙しさとか、いろいろなことが起こってくると、イエスさまのことをすっかり忘れてしまうことがあるかもしれません。しかし、イエスさまは、私たちがどんな時も、どこにあっても、共におられる方です。イエスさまを見失うようなことがないようにしたいと思います。主は共におられます。インマヌエルの主が私たちの人生の旅路をこれからも共に歩んでくださることをおぼえ、一歩、また一歩、歩むごとに、主に祈り、主に尋ねていきたいと思います。お祈りいたしましょう。
祈り
恵み深い私たちの主なる神さま
まもなくクリスマスを迎えます。イエスさまの誕生をみんなでお祝いしたいと思います。
イエスさまは居場所がなく、飼い葉桶の中で生まれた、と聖書に書いてあります。しかし、私たちは、この方をその心に、その人生にお迎えすることができたことを感謝します。
この恵みを知る私たちは、聖書が示すクリスマス、すべての人のためにイエスさまがおいでになったことを人々にお知らせして、一人でも多くの方がイエスさまをお迎えすることができますように。
私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン
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