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私たちのために嘆き、呻き、執り成してくださった方(マタイ11章20~24節)【週報巻頭言】2024年5月5日

イエスさまは、自分が巡ってきた三つの町に向かって、「コラジン、お前は不幸だ。ベトサイダ、お前は不幸だ」(マタイ11章21節)、「カファルナウム、お前は・・・」(同23節)と言われました。「不幸だ」という言葉、口語訳では、「わざわいだ」という言葉で訳されています。不幸だ、わざわいだ、などというと、悔い改めない町、自分の罪を認めない、気づかない町に対して、イエスさまは、何か呪いの言葉を語っておられるのだろうか、と思うかもしれません。しかし、不幸だ、とか、わざわいだ、と訳されている言葉、これは、イエスさまの嘆きの言葉、呻きの言葉なのです。ですから、別な訳では、「ああ」(新改訳)という言葉、感嘆詞、感動詞で訳されています。イエスさまは悔い改めない、罪を罪とも認めない町のために、人々のために嘆いておられる、呻いておられるのです。

イエスさまが嘆かれた、呻かれた、と言いましたが、聖書の中で、神さまの呻きについて書いてある箇所があります。

「同様に、“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。」(ローマ8章26節)

ここに出てくる「“霊”」というのは、神さまの霊、聖霊のことです。聖霊の呻き、神さまの呻きが語られています。「弱いわたしたち」。自分の罪に気づくこともできず、自分の罪を認めることもできない弱い私たち。そういう私たちは、どう祈るべきか分からないのです。しかし、そういう私たちのために、聖霊自ら、神さま自ら、言葉に表せない呻きをもって執り成してくださる、私たちのために祈ってくださるというのです。

神さま自ら執り成してくださる。私たちは、イエスさまの執り成しの祈りを受難週の時に読みました。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカ23章34節)。自分が何をしているのか知らない。自分の罪を知らない、自分が罪人であることを知らない。そういう私たちのために、主は十字架におかかりになりました。私たちは、イエスさまが十字架におかかりになったおかげで、罪から救われ、神さまの赦しに生きる者とされました。主がこの私のために、嘆き、呻き、執り成してくださった。この救いの恵みをいつまでも忘れないでいたいと思います。

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