日々新たに主に出会おう(マタイ11章1~19節)【週報巻頭言】2024年4月28日
イエスはお答えになった。「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである。」(マタイ11章4~6節)
ここには、イエスさまがなさったことが語られています。「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている」。このイエスさまの言葉から分かるのは、イエスさまは、厳しい裁きをなさるようなことはしておられないということです。しかし、イエスさまは、別の仕方で、イエスさまご自身が私たちの罪の身代わりとなって裁きを受けられるという仕方で、私たちの古い生き方、罪に支配された生き方をきれいにしてくださった、焼き払ってくださったのです。それが、イエスさまの十字架の贖いです。
イエスさまは、ヨハネの弟子たちに最後にこう言われました。「わたしにつまずかない人は幸いである」。これは、イエスさまにつまずかない人は幸いである、という意味です。バプテスマのヨハネは、イエスさまを、自分が考えていたような救い主ではなかった、と思っていたのかもしれません。それで、イエスさまにつまずいてしまった。私たちもそういうことがあるかもしれません。イエスさまを信じたら、こういう人生になるのではないか?と期待していたけれど、そうはならなかった・・・。ある人は、順風満帆の人生ということを思い描くかもしれません。しかし、イエスさまを信じても、いろいろな試練が起こってくるではないか・・・。その時、私たちもイエスさまにつまずいているのです。けれども、私たちはそこで留まってはならない。そのつまずきを超えていくのです。自分の思い描く、自分の思い通りの神さま、信仰、人生を超えていくのです。方向転換というのは、まさにそういうことです。私が中心ではない。私が思い描くことではない。私の思い通りではない。神さまが中心です。神さまが私に語っていることを聴いて従うのです。信仰生活において、聖書から神さまの言葉を聴くこと、祈ることが欠けているなら、前に進むことはできません。なぜなら、神さまを信じていると言いながら、それは神さまを、神さまの言葉を無視しているようなことだからです。私たちは、方向転換をするのです。神さまの方に心を向けていく。日々新たに、イエスさまに出会っていきましょう、イエスさまの恵みをもっともっと知っていきましょう。
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