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「見よ、神の選んだ僕」マタイによる福音書12章9~21節 2024/06/02 SUN.

「見よ、神の選んだ僕」マタイによる福音書12章9~21節 2024/06/02 SUN. 赤塚教会礼拝説教

聖書―マタイによる福音書12章9~21節
(はじめに)
 イエスさまが、会堂に入った時の話が書かれていました。土曜日、安息日のことです。ユダヤの人たちは、会堂に入り、そこで礼拝をしました。イエスさまも、礼拝を大切にされました。今、私たちは、日曜日、イエスさまが復活された日として、神さまに礼拝をささげます。そして、祝祷を受けて、新しい週の歩みを始めます。私は、祝祷とは、祝福の祈りであると理解していました。ですから、祝祷をしながら、ここに集われた皆さんに神さまの祝福がありますように、と心の中で祈っていました。ある牧師先生は、祝祷について、これは、祝福の宣言なのだ、と言われました。あなたがたは神さまに祝福されている!そのことを宣言することなのだ、というのです。その話を聞いて以来、私は、祝福を祈ることと、祝福の宣言、両方の意味を込めて、祝祷するようになりました。

(聖書から)
 さて、今日の聖書個所を見ていきます。
12:9 イエスはそこを去って、会堂にお入りになった。12:10 すると、片手の萎えた人がいた。人々はイエスを訴えようと思って、「安息日に病気を治すのは、律法で許されていますか」と尋ねた。
 イエスさまは、そこを去って、会堂に入られた、とあります。イエスさまが弟子たちと麦畑を歩いておられ、イエスさまの弟子たちが麦の穂を摘んで食べた様子を見ていたファリサイ派の人々が、安息日に麦の穂を摘むというのは、仕事をすることと見なされ、安息日の掟を破ったことになる、といって問題にし、安息日の論争が行われましたが、イエスさまは、その場を去って、会堂に入られました。イエスさまは、礼拝をするために、会堂に入られたのです。イエスさまは、安息日に仕事をしてはならない、ということについては何も言っておられませんが、この箇所にありますように、礼拝を大切にされていたことが分かります。
 けれども、イエスさまに対して、安息日論争を仕掛けたファリサイ派の人々は、そこで引き下がったわけではありませんでした。会堂には、病気のために、手が麻痺してしまったのでしょうか、片手の萎えた人がいました。すると、ファリサイ派の人々は、イエスさまにこのように尋ねています。「安息日に病気を治すのは、律法で許されていますか」。
 この質問の意図は、すでにこのように書かれていることから分かります。「人々はイエスを訴えようと思って、・・・尋ねた」。イエスさまを訴える。何を訴えるのでしょうか。イエスさまが、そこにいる片手の萎えた人を見たら、彼を癒すのではないか?すると、安息日に医療行為をしたことになる、仕事をしたことになる。安息日の掟を破ったことになる、ということで訴えることができる。それが、彼らの考えていたことだったのです。
 イエスさまは、彼らに、このように言われました。
12:11 そこで、イエスは言われた。「あなたたちのうち、だれか羊を一匹持っていて、それが安息日に穴に落ちた場合、手で引き上げてやらない者がいるだろうか。12:12 人間は羊よりもはるかに大切なものだ。だから、安息日に善いことをするのは許されている。」
 イエスさまは、羊を所有している人の話をされました。その人は、羊を一匹持っていた。その羊が安息日に穴に落ちたとする。すると、羊を助けようとしない者がいるだろうか?と言われたのです。もし、穴に落ちた羊を、今日は安息日だからといって、翌日まで待っていたとすると、どうなったでしょうか?穴に落ちた羊はそのまま死んでしまったかもしれません。羊を死なせてはいけない。羊の命は大事だ。飼い主は、すぐ穴から引き上げようとするのではないか。
 この後に、イエスさまは、「人間は羊よりもはるかに大切なものだ。だから、安息日に善いことをするのは許されている」と言われました。この「人間は羊よりもはるかに大切なもの」という言葉に、引っ掛かる方があるかもしれません。人間の方が、羊よりも、動物よりも大切なのか?ここでイエスさまは、そういう話をされたのではありません。安息日に羊を救出する話をなさるきっかけというのは、そこに片手の萎えた人がいたからです。その人をイエスさまは癒そうとされた。それは、安息日だから、ダメなのか?悪いことなのか?そういう話ではないでしょう。この人は病に苦しみ、癒されたいと願っている。羊を救うことと同じように、この人を救うことは善いことではないか?安息日に善いことをするのは許されているのではないか?このように言われたのです。
 イエスさまは、羊の話をされました。穴に落ちたままだと死んでしまう。すぐに助けなければ。これは、命に関わる話です。目の前にいる片手の萎えた人。彼は、その病のために苦しんでいた。ある説では、石工、石を刻む職人であったとも言われます。手が使えなくなるということは、この人にとっては、大変なことです。生活の糧を得ることもできなくなってしまう。ここにも、命、生活に関わる問題があります。
 安息日に何もしてはいけない、仕事をしてはいけない。それが、神さまに対する信仰なのだ。そういうファリサイ派の人々に対して、イエスさまは、命の問題、生活の問題をぶつけてくるのです。あなたがたは、自分は神さまに忠実だ、正しく生きている、と言っている。しかし、あなたがたは、一人一人の命について本当に考えたことがあるのか?そういう問いをなさっているようにも思えます。
12:13 そしてその人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。伸ばすと、もう一方の手のように元どおり良くなった。12:14 ファリサイ派の人々は出て行き、どのようにしてイエスを殺そうかと相談した。
 イエスさまは、片手の萎えた人を癒されました。一人の人の病が癒されること。それは、嬉しいことです。私たちは、教会の兄弟姉妹、家族、その健康や生活をおぼえて祈ります。治療をしている人がいる。癒された人がいる。そういう話を聞くと、ある時は、心が痛みます。またある時は、本当に良かった!と声をかけあいます。そこに、教会の素晴らしさがあります。共に喜び、共に泣く(ローマ12章15節)、それが教会です。ところが、この箇所では、ファリサイ派の人々が、片手の萎えた人が癒されたことを知っていたのでしょうか?癒されたことを聞いて、知って、一緒に喜んだ・・・。いいえ、ここには、そのようなことは、何も書かれていません。彼らは、片手の萎えた人については、何も関心がなかった、ということでしょうか?ただ一つ、ここに書かれていることは、ファリサイ派の人々が、どうやって、イエスを殺そうか、ということを相談していた、ということでした。彼らの関心は、一人の人の癒しのことではなく、自分たちの敵であるあのイエスという男を殺してしまおう、ということでした。
12:15 イエスはそれを知って、そこを立ち去られた。大勢の群衆が従った。イエスは皆の病気をいやして、12:16 御自分のことを言いふらさないようにと戒められた。12:17 それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。
 主は、彼らの話していたことを知って、そこを立ち去られました。主は、愛の無いところからは立ち去られるのです。そして、主はどこに行かれたでしょうか。主は、苦しむ人たちのことへ、悩みの中にある人たちのところへ行かれ、そこでその人たちを癒されたのです。主は愛するために出かけられるのです。そして、愛するために、主と共に出かけていくのが、教会なのです。
 18節以下、ここには旧約聖書の引用があります。
12:18 「見よ、わたしの選んだ僕。わたしの心に適った愛する者。この僕にわたしの霊を授ける。彼は異邦人に正義を知らせる。
12:19 彼は争わず、叫ばず、/その声を聞く者は大通りにはいない。
12:20 正義を勝利に導くまで、/彼は傷ついた葦を折らず、/くすぶる灯心を消さない。
12:21 異邦人は彼の名に望みをかける。」
 イザヤ書42章1~4節の言葉が引用されています。ここに書かれていることは、イエスさまのことです。イエスさまについて、「見よ、わたしの選んだ僕。わたしの心に適った愛する者」(18節)と言われています。神さまが選ばれた僕とあり、神さまの心に適った愛する者ともあります。「わたしの心に適った愛する者」、聖書協会共同訳では、「私の心が喜びとする、私の愛する者」となっています。神さまの心が喜びとする。それが、イエスさまだというのです。私たちは、イエスさまを主と信じる者です。イエスさまに従う者です。そういう私たちも、神さまの心が喜ぶ歩みをしたいと思います。
 この預言の言葉には、「異邦人」のことも言われていました。ユダヤ人以外の人たちのことです。神さまの民として選ばれていない人たち。異邦人について、当時のユダヤの人たちはそのように考えていました。しかし、「彼は異邦人に正義を知らせる」(18節)、「異邦人は彼の名に望みをかける」(21節)とあります。私たちも、ここで言われている「異邦人」と言っていいでしょう。しかし、イエスさまの福音は、全世界に宣べ伝えられていきました。イエスを主と信じる人は、異邦人であっても、みんな神さまの民とされたのです。
「彼は争わず、叫ばず、/その声を聞く者は大通りにはいない」(19節)とありました。イエスさまは、人々を癒したのに、「御自分のことを言いふらさないようにと戒められた」とありました。なぜ、イエスさまは、ご自分がなさった癒し、善いことを言いふらさないように、と言われたのでしょう?イザヤ書のこの言葉が、そのことについて教えています。「彼は争わず、叫ばず、/その声を聞く者は大通りにはいない」。争わず、叫ばず・・・。イエスさまの福音宣教は、争い、叫んで行うようなものではないのです。

(むすび)
 イザヤ書の言葉の中に、「正義」(18、20節)という言葉が出てきました。ファリサイ派の人々の正義、それは、安息日論争で分かるように、自分たちの正しさを誇り、他者を裁くものでした。しかし、イエスさまの正義はそれとは違います。20節をお読みしますと、「正義を勝利に導くまで、/彼は傷ついた葦を折らず、/くすぶる灯心を消さない」とありました。傷ついた葦を折らない、くすぶる灯心を消さない、というのです。
「傷ついた葦」、「くすぶる灯心」とは何でしょうか?私は、今日の聖書個所に出てきた「片手の萎えた人」のことを思いました。先ほども言いましたが、この人は職人さんだった。ところが、手が使えなくなって、仕事もできなくなってしまった・・・。辛い思いを抱えながら、礼拝に集ってきたのです。そういう彼のことを主は見ておられた。主はこの人のすべてをご存じであった。「傷ついた葦を折らず、/くすぶる灯心を消さない」。争ったり、叫んだりせず、傷ついた葦、くすぶる灯心のような一人一人を立ち直らせる、立ち上がらせる。それが、イエスさまの正義であり、イエスさまの福音宣教です。

祈り
恵み深い私たちの主なる神さま
今日も私たちは、教会に集い、あなたを礼拝しています。この礼拝で、私たちは、神さまの祝福を受けた一人一人であることをおぼえさせてください。そして、神さまの祝福を告げ知らせる一人一人としてください。
イエスさまの正義、イエスさまの福音宣教、それは、争ったり、叫んだりするようなものではありません。むしろ、傷ついた葦、くすぶる灯心のような一人一人を立ち直らせ、立ち上がらせるものです。私たちも、その恵みにあずかりました。どうか、新たに主に出会い、主によって生かされる人がありますように。
 私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン

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