主の正義、主の福音宣教(マタイ12章9~21節) 【週報巻頭言】2024年6月23日
「見よ、わたしの選んだ僕。わたしの心に適った愛する者。この僕にわたしの霊を授ける。彼は異邦人に正義を知らせる。
彼は争わず、叫ばず、/その声を聞く者は大通りにはいない。
正義を勝利に導くまで、/彼は傷ついた葦を折らず、/くすぶる灯心を消さない。
異邦人は彼の名に望みをかける。」 (マタイ12章18~21節)
イエスさまについて、イザヤ書42章1~4節の言葉が引用されています。「彼は争わず、叫ばず、/その声を聞く者は大通りにはいない」(19節)とありました。イエスさまは、人々を癒したのに、「御自分のことを言いふらさないようにと戒められた」(16節)とありました。なぜ、イエスさまは、ご自分がなさった癒し、善いことを言いふらさないように、と言われたのでしょう?イザヤ書のこの言葉が、そのことについて教えています。「彼は争わず、叫ばず、/その声を聞く者は大通りにはいない」。イエスさまの福音宣教は、争い、叫んで行うようなものではないのです。
「正義」(18、20節)という言葉が出てきました。ファリサイ派の人々の正義、それは、安息日論争で分かるように、自分たちの正しさを誇り、他者を裁くものでした。しかし、イエスさまの正義はそれとは違います。「正義を勝利に導くまで、/彼は傷ついた葦を折らず、/くすぶる灯心を消さない」とありました。傷ついた葦を折らない、くすぶる灯心を消さない、というのです。
「傷ついた葦」、「くすぶる灯心」とは何でしょうか?会堂にいた「片手の萎えた人」(9節)のことを思いました。この人は職人さんだった。ところが、手が使えなくなって、仕事もできなくなってしまった・・・。辛い思いを抱えながら、礼拝に集ってきたのです。そういう彼のことを主は見ておられた。主はこの人のすべてをご存じであった。「傷ついた葦を折らず、/くすぶる灯心を消さない」。争ったり、叫んだりせず、傷ついた葦、くすぶる灯心のような一人一人を立ち直らせる、立ち上がらせる。それが、イエスさまの正義であり、イエスさまの福音宣教です。
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