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主にある喜び(イザヤ65章17〜25節)

 19節には「わたしはエルサレムを喜びとし/わたしの民を楽しみとする。泣く声、叫ぶ声は、再びその中に響くことがない」とあります。神様はエルサレムを、イスラエルの民を喜び、楽しみとされるとあります。それはつまり、神様は私たちに対しても、一人一人が神様にとって喜びであり、楽しみであるということです。ここには神様は私たちの存在を喜び、楽しみとしてくださっているということが示されています。「泣く声、叫ぶ声」とあります。それはもう響くことはないというのです。なぜでしょう。神様が私たちの嘆きを、叫びを聞いておられるからです。知っておられるからです。そして、私たちの嘆き、叫びを喜びに、楽しみに変えてくださるのです。
ヘブライ人への手紙4章15節にこのような言葉が記されています。「この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです」。 これはイエス様のことです。イエス様御自身が世においでになり、私たちと同様に試練に遭われた。身を持って苦しみに遭われたのです。
 私はあなたを喜びとする、楽しみとする。神様はこのように私たちに語られます。私たちがどのような者であれ、神様は私たちの存在を喜ぶ、楽しみとされる。そのことを知る時、私たちも主と共にある、主を信じることが喜びとなるのではないでしょうか。

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