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「光の中を歩もう」ヨハネの手紙Ⅰ 1章5~10節 2024/07/21 SUN.

「光の中を歩もう」ヨハネの手紙Ⅰ 1章5~10節 2024/07/21 SUN. 赤塚教会礼拝説教

聖書―ヨハネの手紙一1章5~10節
(はじめに)
 お読みした聖書の個所はヨハネの手紙一1章5節からです。5節の初めのところには、このような言葉が書かれていました。
1:5 わたしたちがイエスから既に聞いていて、あなたがたに伝える知らせとは、神は光であり、神には闇が全くないということです。
 「わたしたちがイエスから既に聞いていて、あなたがたに伝える知らせ」とありました。「あなたがたに伝える知らせ」。私たちが、私たち教会が伝える知らせ、それは何でしょうか。それは、イエス・キリストの福音です。イエス・キリストが私たちの罪のために十字架にかかって死んでくださったこと、復活されたこと。イエスさまの救いを信じることによって、私たちは、イエスさまと共に新しい人生を生きることができる。それが、福音です。福音とは、良い知らせということです。良い知らせを聞いた私たちは、人々にも、この良い知らせを伝えていくのです。

(聖書から)
 ヨハネの手紙、この手紙を書いたのは、ヨハネという人です。先月もお話ししましたが、イエスさまと一緒に歩んだ弟子のヨハネであるとか、別のヨハネであるとか、このヨハネについては、諸説あり、はっきりとしたことは分かりません。ヨハネは、こう言っています。「わたしたちがイエスから既に聞いていて、あなたがたに伝える知らせとは、神は光であり、神には闇がまったくないということです」。
ここで注意したいことは、ヨハネは、私がイエスさまから聞いていて、とは、書かず、私たちがイエスさまから聞いていて、と書いてあることです。イエスさまから聞く。ここにおいでになっている皆さんは、それぞれ、イエスさまから聞く、ということを行っていると思います。イエスさまから聞く。具体的には、聖書の言葉を読む、聖書の話を聞く、ということです。もう一度言いますが、私たちはイエスさまから聞く。それは、独りだけで聞くのではないのです。主にある兄弟姉妹と一緒に、教会の一人一人と一緒にイエスさまから聞くのです。私たちは、毎週、そのことを教会学校、礼拝などで、味わっています。
さて、ヨハネが、イエスさまから聞いたこと、それは、「神は光であり、神には闇が全くないということ」と言っています。神さまは光であるということ、神さまには闇が全くないということ、これは、どういうことでしょうか?
 この手紙が書かれた背景には、異端者の存在がありました。異端者、それは、聖書の教えとは違うことを伝える人たちのことです。その異端者というのは、グノーシス主義と言われる人たちのことでした。この人たちは霊肉二元論という考えを主張していました。イエス・キリストは霊的な方であって、肉をとって来られた。つまり、人となって来られた、ということを否定しました。また、人間の罪を否定しました。私たち人間は、この世では、肉では罪を犯しても、信仰を持って霊的な存在となるなら、その罪はまったく問われない、私たちには罪はないというのです。そういう人たちに対して、ヨハネは、私たちの信仰は、そういうものではない。聖書の言葉から聞く、イエスさまの言葉から聞く信仰なのだ、と言ったのです。イエスさまは、神さまであるのに、私たちを罪から救うために、人となって来られた。1節に、イエスさまのことを「初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたもの」とありました。イエスさまは確かに人となって来られた。そして、弟子たちはその言葉を聞き、その姿を見、イエスさまと触れた、と言っているのです。
 以前、教会の青年会で、あるテキストを使って、学びをしたことがあります。その中で私たちの信仰の土台は何か?ということを学びました。そのテキストでは、四つのことがあげられていました。一つは知性、分別、論理、二つ目は経験、幻、感情、三つ目は伝統、そして、四つ目は聖書でした。その四つの中で、私たちの信仰の土台は何か、という問いがありました。皆さんは、この話を聞いて、もうすぐにお分かりになったと思います。私たちの信仰の土台は、知性ではありません。幻、感情でもありません。伝統でもありません。私たちの信仰の土台は、聖書、神さまの言葉です。
ところが、キリスト教会の歴史の中には、聖書の言葉に飽き足らず、そこに留まることをしないで、まことの信仰から離れてしまった人たちがいました。しかし、私たちは、ヨハネが言ったように、「イエスから・・・聞いて」、この信仰、聖書の言葉に聞く信仰であり続けたいと思います。使徒言行録17章11節にはベレアのユダヤ人の信仰の姿が記されています。「ここのユダヤ人たちは、テサロニケのユダヤ人よりも素直で、非常に熱心に御言葉を受け入れ、そのとおりかどうか、毎日、聖書を調べていた」とあります。ここで言われている「素直」というのは、誰に対して素直か、というと、神さまに対して素直であるということ、聖書の言葉に対して素直であるということです。自分の歩み、生き方、それらをいつも聖書の言葉に照らし合わせていくのです。
それに続いて、私たちが伝える知らせ、そのことについて、同じく5節にこのように記されていました。「神は光であり、神には闇が全くない」。神さまは光であると、書かれています。ヨハネによる福音書1章4、5、9節にはこのようなことが書かれています。「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。・・・その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである」。
聖書は聖書によって解釈する、ということを聞いたことがあります。聖書の注解書など、解説書を使って、聖書を読み、理解するということは有益なことですが、もっとも良い聖書の注解、解説は聖書そのものであるというのです。今、お読みした聖書個所では、光について、「人間を照らす光」、「光は暗闇の中で輝いている」、「まことの光」、「世に来てすべての人を照らす」とありました。このような個所を併せて読んでいきますと、神さまが光という意味が分かってきます。神さまはまことの光、私たちを照らす光です。
神さまは光ということで、二つのことをお話したいと思います。まず、第一に神さまの光に照らされた時、私たちのすべてが明らかにされます。私たちすべての人間は、神さまの前には罪人であるということを知らされます。ローマの信徒への手紙3章10節には、「正しい者はいない。一人もいない」とあります。神さまの光に照らされる時、神さまの前に立つ時、私たち誰一人として、罪のない者はいない。すべての者が罪人であるということが明らかにされるのです。
第二のこととして、神さまの光というのは、私たちの歩むべき道を照らす光です。詩編119編105節には、「あなたの御言葉は、わたしの道の光 わたしの歩みを照らす灯」とあります。私たちは自分がどう歩んでいったらいいのか。将来のことについては何も分かりません。しかし、すべてをご存じである神さまの言葉を頼りに生きていくならば、道は開かれていくのです。ですから、ここにありますように、「あなたの御言葉は、わたしの道の光 わたしの歩みを照らす灯」。先が見えない、真っ暗のように思えても、神さまの言葉に従って歩むなら、神さまは私たちの道を開いてくださる、私たちの歩みを導いてくださるのです。
神さまは光。それに対して、闇ということも言われていました。神さまには、闇がまったくない。闇というのは、神さまから離れた生き方、罪に支配された生き方と言うことができるでしょう。この手紙が書かれた背景には、異端者の存在があった、と言いましたが、その人たちは、6節にありますように、自分たちは「神との交わりを持っている」と言っていました。しかし、実際にはそうではなく、闇の中を歩んでいました。神さまの言葉に従うことをせず、自分たちの思いのままに生きていました。そのことに対して、ヨハネは「光の中を歩む」(7節)ように、つまり、神さまの言葉に従って歩むように、と言ったのです。
この異端者たちは8、10節にありますように、「自分に罪がない」、「罪を犯したことがない」と言いました。自分たちは霊的な存在であり、この世で罪を犯しても、それはまったく問われないのだ、と言っていました。私たちは、グノーシス主義のような考えではないと思いますが、私たちも、自分には罪がない、罪を犯していない、と考えてしまうことはあるのではないでしょうか?それは例えば、自分と世の中の人々を比較してしまう時などです。あの人は、あんな犯罪を行った。私の方が問題はない。あの国は、戦争をしている。私の国の方が問題はない。実際は、私たちは犯罪を行ったり、戦争を行ったりしてはいないかもしれませんが、それだからといって、私たちには、罪がないとか、私たちが正しいというわけではないということは、皆さんよくよくご承知だと思います。罪というのは、人と比べてどうだこうだ、ということではないのです。罪は、神さまの前に立つ時、明らかにされる、知らされることなのです。

(むすび)
 7節と9節をお読みします。
1:7 しかし、神が光の中におられるように、わたしたちが光の中を歩むなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます。
1:9 自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。
「自分の罪を公に言い表す」とありました。従来の聖書の訳では、「自分の罪を告白する」(口語訳など)となっていました。新共同訳聖書では、「罪を告白する」というところを、「罪を公に言い表す」ととても具体的に、分かりやすく訳しました。この言葉から分かることは、私たち人間というのは、罪を公にしない。つまり、罪を隠したがる習性があるということです。しかし、罪を隠したままだと、その罪に支配されたままになってしまうのです。なぜなら、自分の罪を神さまに取り扱ってもらうことをせず、自分の中で、それを放置するという状態だからです。ですから、私たちは、罪を公に言い表す。神さまに告白するのです。
罪を告白する、公に言い表す、光の中を歩む、とどうなるか、ということが、7節にはこのように書かれています。「御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます」。9節ではこのように書かれています。「神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます」。神さまは、私たちをあらゆる罪から、あらゆる不義から清めてくださる、というのです。清められる。それは、神さまが私たちを罪に支配された古い人生、生き方から、神さまと共にある新しい人生、生き方へと導いてくださるということです。このことを信じて、今日からまた主と共に新しい一歩を歩みだしましょう。

祈り
恵み深い私たちの主なる神さま
私たちは、イエスさまから、福音を聞く恵みにあずからせていただいて感謝します。
神さまは光です。神さまの前に立つ時、私たちは罪を示されます。しかし、神さまの前に立つ時、私たちを罪から救うために、主が十字架の救いのみわざを行ってくださったことを知らされます。
この福音、良い知らせを私たちは聞いて、その恵みにあずかった私たちは、福音を人々にお知らせする者として用いてくださいますように、福音を聞いて、主にある新しい歩みをされる方がありますように導いてください。
 私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン

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