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「空き家にしてはならない」マタイによる福音書12章38~45節 2024/08/04 SUN.

「空き家にしてはならない」マタイによる福音書12章38~45節 2024/08/04 SUN. 赤塚教会礼拝説教

聖書―マタイによる福音書12章38~45節
(はじめに)
 イエスさまが救い主であるということ、イエスさまが神さまであるということ、このことは、はい、分かりました。そうですね、とすぐに信じられるようなものではありません。皆さんは、何がきっかけで、イエスさまが救い主だと、イエスさまが神さまだと、信じたのでしょうか?
 お読みした聖書の中には、イエスさまに、このように質問をした人たちの言葉が書かれていました。
12:38 すると、何人かの律法学者とファリサイ派の人々がイエスに、「先生、しるしを見せてください」と言った。
 律法学者とファリサイ派の人々が、イエスさまにこのように尋ねたのです。「先生、しるしを見せてください」。ここで「しるし」というのは、イエスさまが救い主であるということ、イエスさまが神さまであるということ、そのことを証明することができるものということです。
 この人たちは、イエスさまについて、このように思っていたかもしれません。イエスという人は、一生懸命、神さまの話を人々に説き明かしている。病の人を癒し、貧しい人を助けている。その話を聞いて、本当にそうだなあ、その生き方を見て、素晴らしいなあ、と思うけれども、この人は、いったい何者なのだろう?この人は、本当に救い主なのだろうか?神さまなのだろうか?そういう理由で、イエスさまご自身に、直接、尋ねてみたのかもしれません。
 一方で、この人たちは、別の理由から、イエスさまに質問したとも考えられます。お読みした聖書個所の少し前には、イエスさまとファリサイ派の人々の間で論争があったことが書かれていました。すると、彼らは、イエスさまに質問して、困らせてやろうと考えていたのかもしれません。

(聖書から)
 この人たちが「しるしを見せてください」と質問したこと、イエスさまが、本当に救い主なら、神さまなら、そのことが信じられる証拠がほしい、と思うのは、私たちも同じではないでしょうか。それでは、イエスさまは、この質問に対して、どうされたのでしょうか?
 39節から、イエスさまの言葉が書かれています。そのイエスさまの言われた言葉を読んで、考えてみたいと思います。
12:39 イエスはお答えになった。「よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。
 イエスさまは、彼らの質問にお答えになりました。まず、言われたことは、「よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない」ということでした。「よこしまで神に背いた時代の者たち」と言っています。これは、イエスさまに質問した人たちのことでしょうか?それとも、この人たちだけではなく、今の時代の人たち全般のこととして言われたのでしょうか?
 イエスさまは、しるしということについて、「預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない」と言われました。この「預言者ヨナのしるし」ということについて考えてみたいと思いますが、ヨナという人の話は、旧約聖書のヨナ書という文書に出てきます。少し、ヨナの話に触れてみますと、神さまは、ヨナという人に、ニネベという大きな街に行って、神さまのことを伝えるようにと言われました。けれども、ヨナはその話を聞いて、とても嫌がります。なぜなら、ニネベに住んでいる人たちは、神さまのことには無関心で、自分たちの思うままに、好き勝手に生きていたからです。そんなところへ行っても、誰も神さまの話を聞いてくれないのではないか、とヨナは思ったのです。
 そこで、ヨナはどうしたかというと、神さまが行きなさい、と言われたニネベとは、正反対の方向へ向かう船に乗ることにしました。ところが、海は大荒れになって、ヨナの乗っていた船も大変なことになりました。船の船長は、船の乗客たちに、このように呼びかけます。「みんなでくじを引こうではないか。すると、誰のせいで、こんな災難になったかが分かるから」。みんなでくじを引いたところ、ヨナに当たった、というのです。ヨナは、自ら申し出て、海に放り込まれることになりました。ヨナは、海に放り込まれた後、大きな魚に吞み込まれました。そして、ヨナは、その魚の腹の中で三日三晩過ごすことになるというのが、途中までの話です。
 さて、今日の聖書個所に戻りますが、そのヨナの話をイエスさまがなさっています。40節以下をお読みします。
12:40 つまり、ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、大地の中にいることになる。12:41 ニネベの人たちは裁きの時、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり、彼らを罪に定めるであろう。ニネベの人々は、ヨナの説教を聞いて悔い改めたからである。ここに、ヨナにまさるものがある。
 ヨナは、三日三晩、大きな魚の腹の中にいました。それと同じように、「人の子も三日三晩、大地の中にいることになる」とイエスさまは言われました。ここで「人の子」というのは、イエスさまのことです。イエスさまは、神さまであるのに、人として来られた。それが、「人の子」ということです。教会では、毎年12月の時期、クリスマスをお祝いしますが、それは、神さまのみ子イエスさまのお誕生をお祝いするということです。神さまが、人として、この世に、私たちのところにおいでになった。それが、クリスマスです。
 それでは、「人の子も三日三晩、大地の中にいる」とは、どういうことでしょう。イエスさまは三日三晩、大地の中にいる。教会では、クリスマスをお祝いしますが、もう一つ、よく知られたお祝いがあります。それは、イースターです。イースターとは、日本語では、復活祭と言って、イエスさまの復活をお祝いします。イエスさまは、私たちを罪から救うために、十字架にかかって死んでくださいました。そして、今日のこの箇所に書いてあったように、イエスさまは、三日三晩、大地の中におられたのです。これは、死んで墓の中に葬られた、ということです。でも、イエスさまは、それで終わりではありませんでした。イエスさまは、神さまの力によって復活されました、罪と死に打ち勝たれて復活されました。その復活を記念して、教会では、クリスマスと共に、イースターをお祝いするのです。
 ヨナのしるし、それは、イエスさまが、私たちの罪のために十字架にかかって死なれることを言われたのです。おそらく、この話をイエスさまがされた時には、これを聞いた人たちはいったい何のことだろう?と思ったことでしょう。
 ところで、41節には、ヨナの話が続いて語られています。ヨナは大きな魚の腹の中から救い出されました。ヨナは、神さまが私のことを助けてくださったのだ!と神さまから逃げ出そうとしたことを悔い改めて、神さまが言われた通り、ニネベへ行って、神さまのことを伝えることにしました。すると、ニネベの人たちは、ヨナから神さまの話を聞いて、悔い改めました。その話をされて、イエスさまは、このように言われました。「ここに、ヨナにまさるものがある」。ヨナにまさるお方、それがイエスさまです。イエスさまは、続いて、このような話をされました。
12:42 また、南の国の女王は裁きの時、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり、彼らを罪に定めるであろう。この女王はソロモンの知恵を聞くために、地の果てから来たからである。ここに、ソロモンにまさるものがある。」
 南の国の女王が、ソロモンから、神さまから与えられた知恵の言葉を聞くために、はるばる遠くの国からやって来た、という話です。この話の最後に、イエスさまは、「ここに、ソロモンにまさるものがある」と言われました。ソロモンというイスラエルの偉大な王さま、それにもまさるお方、それがイエスさまだというのです。

(むすび)
 ニネベの人たちはヨナから神さまのことを聞いて悔い改めました。南の国の女王はソロモンから神さまの言葉を聞くためにはるばる遠くの国からやって来ました。それなのに、今の時代のあなたがたはどうなのか?ヨナにまさるお方、ソロモンにまさるお方であるイエスさまが、すぐ目の前にいるというのに、その話を聞くことをしない。イエスさまを受け入れることをしない、と言われたのです。そして、それは、まさにこういう状態なのだ、と話されたのが、43節以下の言葉です。
12:43 「汚れた霊は、人から出て行くと、砂漠をうろつき、休む場所を探すが、見つからない。12:44 それで、『出て来たわが家に戻ろう』と言う。戻ってみると、空き家になっており、掃除をして、整えられていた。12:45 そこで、出かけて行き、自分よりも悪いほかの七つの霊を一緒に連れて来て、中に入り込んで、住み着く。そうなると、その人の後の状態は前よりも悪くなる。この悪い時代の者たちもそのようになろう。」
 ここで、語られているのは、家の話ですが、これは、私たちの心を家に例えてお話しされたのです。あなたがたの心は、きれいに掃除して、整えられているようなものだ。けれども、空き家になっている。空き家というのは、誰も住んでいない、ということです。私たちが、イエスさまから、あなたの心は空き家のような状態だ、と言われたら、どのように答えるでしょうか?おそらく、このように答えるのではないでしょうか。「いいえ、イエスさま、私の心は空き家などではありません。私の心には私が住んでいます!」それは、その通りだと思います。私の心には私が住んでいる。それは、つまり、私の家の主人は私、私の心の主人は私ということです。
 しかし、イエスさまの目から見ると、私たちというのは、「空き家になっており、掃除をして、整えられていた」という状態なのです。掃除をして、整えられている、というのは、良いことだと思います。これは、私たちが、自分の力で一生懸命に、真面目に生きているということと言ってもよいと思います。そのことは、悪いことでも何でもありません。イエスさまが、問うておられるのは、空き家になっている、ということです。「空き家になっている?いいえ、私の家は、私の心は、私が主人です」。私たちは、このように答えるでしょう。けれども、イエスさまは、空き家になっている、と言われるのです。それはどういうことかというと、あなたがたは、本当の主人を迎えていない、本当の主人を主人としていない、ということです。では誰が、本当の主人でしょうか?
 私たちが、イエスさまを信じた時、私たちは、イエスさまは私の主と告白したはずです。けれども、今も、私たちは、イエスさまを私の主、私の家の主人、私の心の主人、私の人生の主人、私の生活の主人としているでしょうか?イエスさまは、そういう私たちのことを心配され、また警告されているのです。イエスさまを主としていなければ、あなたの信仰はどうなるか?あなたの人生はどうなるか?自分の力、自分の頑張り、そういったものでは続かない。悪しきものにすぐにやられてしまい、神さまを見失ってしまう。神さまを信じる前と同じような状態、いいえ、それよりももっと悪い状態になってしまう・・・。だから、いつでも、どこでも、イエスさまと共に歩むのです。イエスさまと共に、聖霊の助けによって歩もう。イエスさまは私の主。それは、日曜日だけではありません。教会に来ている時だけではありません。いつでも、どこでも、イエスさまは私の主。そのことを私たちは忘れないでいたいと思います。

祈り
恵み深い私たちの主なる神さま
私たちもしるしを求めます。自分の思い通りになったら、願い通りになったら、神さまを信じてみよう。そういうしるしを求めます。しかし、主は、すでに私たちにしるしを与えてくださいました。それは、私たちを罪から救い出してくださった十字架の愛のわざです。
信仰生活は、自分の力、自分の頑張りで続けることはできません。主が共におられることを信じ、聖霊の助けによって歩むものです。いつでも、どこでも、イエスさまを救い主、私の人生の主と信じて歩ませてください。
 私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン

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