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主よ、助けてください マタイによる福音書15章21~28節 2025/01/12

主よ、助けてください マタイによる福音書15章21~28節 2025/01/12 赤塚バプテスト教会(朝・夕)礼拝説教 石堂雅彦牧師

聖書―マタイによる福音書15章21~28節
(はじめに)
 今日の聖書個所には、イエスさまが、ティルスとシドンの地方に行かれた時のことが書かれていました。そこは、ガリラヤの北、地中海に面したところでした。教会学校では、『聖書教育』の聖書個所から学びを続けていますが、今日の聖書個所では、「異邦人のガリラヤ」(4章15節)というイザヤ書の言葉が引用されていました。イエスさまが伝道を開始されたガリラヤ、その地は、異邦人が多く、ユダヤ人からは、神から遠く離れた人々の地と言われていました。今日、この礼拝でお読みしたティルスとシドンの地方というのは、まさにその異邦人の地でした。そこにイエスさまが行かれたというのは、興味深いことです。イエスさまは、この異邦人の地に伝道に行かれたのでしょうか?
 お読みしたマタイによる福音書には、書いてありませんが、マルコによる福音書にも同じ記事があり、そこには、このようなことが書かれています(マルコ7章24節)。
7:24 イエスはそこを立ち去って、ティルスの地方に行かれた。ある家に入り、だれにも知られたくないと思っておられたが、人々に気づかれてしまった。
 「だれにも知られたくないと思っておられた」とあります。ここから分かることは、イエスさまは、この地に伝道するために来たのではなかった、ということです。「だれにも知られたくないと思っておられた」ということから、イエスさまは、この地でしばしの間、休みを取ろうと考えていたのではないかと想像します。ところが、イエスさまがおいでになったことが、人々に気づかれてしまった。そこで、イエスさまが、この地においでになったことを伝え聞いたのが、この聖書個所に出てくる一人の女性ということであったと思われます。

(聖書から)
 イエスさまは、ティルスとシドンの地方に、休暇のために来たのかもしれません。ところが、イエスさまのことを聞いた一人の女性がイエスさまのもとにやって来ました。22節をお読みします。
15:22 すると、この地に生まれたカナンの女が出て来て、「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」と叫んだ。
 その女性のことを、聖書は「カナンの女」と書いています。マルコによる福音書では、「ギリシア人」(マルコ7章26節)と書いてありました。いずれにしろ、この女性は、ユダヤ人ではない、異邦人でした。彼女は、イエスさまに「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」と言いました。「叫んだ」とありますから、必死に訴えていたのでしょう。自分の娘が、悪霊にひどく苦しめられている、ということですが、当時、病は、悪霊によるものと理解されていましたから、この女性は自分の娘が病で苦しんでいたことを、イエスさまに向かって、強く訴えたのでしょう。
 イエスさまに対する心からの願い、これを聞いたイエスさまはどうなさったのでしょうか?23節をお読みします。
15:23 しかし、イエスは何もお答えにならなかった。そこで、弟子たちが近寄って来て願った。「この女を追い払ってください。叫びながらついて来ますので。」
 「しかし、イエスは何もお答えにならなかった」とあります。イエスさまは、苦しんでいる者の叫びに耳を傾けてくださるはずだ。それなのに、なぜ、イエスさまは何もお答えにならなかったのだろう・・・?イエスさまを知る、イエスさまを信じている私たちにとっては、意外に思える反応ではないでしょうか。
 イエスさまの弟子たちの様子も書いてあります。イエスさまの弟子たちは、イエスさまに近寄って来て、こう願った、というのです。「この女を追い払ってください。叫びながらついて来ますので」。まるで邪魔者扱いです。イエスさまも、弟子たちも、この女性と関わるつもりは毛頭ない、と言わんばかりの態度です。
 そして、イエスさまは、彼女に対して、このように言いました。
15:24 イエスは、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」とお答えになった。
 最初は、「何もお答えにならなかった」とありましたが、イエスさまは、そのままになさらずに、今度は「お答えになった」とあります。イエスさまが、この女性と誠実に向き合われたことが分かります。そして、イエスさまは、ご自分がなぜ、彼女の求めに応えることをしないのか、その理由を述べておられるようです。イエスさまは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない、とお答えになりました。
 「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」ということですが、イエスさまは、ご自分の弟子として十二人をお選びになった時、このようなことを言っておられました(10章5、6節)。
10:5 イエスはこの十二人を派遣するにあたり、次のように命じられた。「異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない。10:6 むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい。
 イエスさまが言われたこと、それは、「イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい」ということでした。異邦人ではなく、ユダヤ人に伝道することを言っておられたのです。これが、イエスさまの伝道方針でした。そして、今日の個所でも、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」とお答えになったのです。
 このような話を聞くと、イエスさまは、ユダヤ人だけを愛し、ユダヤ人だけの伝道を考えていたのだ。異邦人のことは愛していなかったのか、考えていなかったのか?と思われる方があるかもしれません。けれども、私たちが、伝道について考えると、まず、自分の身近な人たちがイエスさまに導かれるように、イエスさまの救いにあずかるように、と考えるのは、当然のことではないでしょうか。もしも、私たちが、自分の身近な家族や友人の救いには無関心でいながら、外国伝道とか、世界伝道を唱えているとするなら、それはいかがなものでしょうか?イエスさまが言われた「イスラエルの家の失われた羊のところ」というのは、まず、自分たちの身近な人たちの救いを求めていこう、ということだったのではないでしょうか。
 しかし、それにしても、このカナンの女性は、イエスさまの言葉を聞いて、自分たちは伝道の対象外なのだろうか?と不安な思い、悲しい気持ちをしたかもしれません。そして、がっかりして、あきらめて帰って行ってしまったのでしょうか。いいえ、そうではありませんでした。イエスさまの言葉を聞いたうえで、この女性はこのように言っています。
15:25 しかし、女は来て、イエスの前にひれ伏し、「主よ、どうかお助けください」と言った。
 先ほどは、この女性がイエスさまに、叫んだことが、書かれていましたが、ここには、「イエスの前にひれ伏し」とあります。叫んだ、そして、ひれ伏した。この女性の必死な様子が分かります。彼女はこう言いました。「主よ、どうかお助けください」。
 「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」。これが、彼女の第一声でした。そして、続いて、「主よ、どうかお助けください」と言いました。イエスさまが、私はユダヤ人の伝道のために遣わされた、とはっきり言われたのに、彼女は、引き下がることをしませんでした。
 主は、さらに厳しくこのように言い放ちます。
15:26 イエスが、「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」とお答えになると、15:27 女は言った。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」
 ここで「子供たち」というのは、ユダヤ人のことです。そして、「小犬」というのは、異邦人のことです。イエスさまは、ユダヤ人の救いのために、ご自分は遣わされていることをここでも繰り返し言われました。しかし、彼女はあきらめないのです。この女性の言葉をもう一度、お読みします。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです」。パンの屑でもかまいません。私は、あなたの救いを受けることをあきらめません、と言うのです。どこまでも食いついていく、しがみついていく様子が分かります。私は、この女性の姿から、あきらめない信仰を教えられます。
 教会で毎週、発行される「祈りの課題」という教会の祈りについて書かれた刷り物があります。受付にも置いてありますので、どうぞ、ご自由にお持ち帰りください。そこには、様々な教会の祈りが書かれています。実は、私は自分用に、この祈りの課題をもっと詳しく、具体的に書いたものを、自分で作っていて、それを見ながら、毎日の祈りをささげるのですが、今日の聖書個所の説教を準備しながら、このカナンの女性のように、もっともっと神さまに期待して、食いついていくように、しがみついていくように祈っていこう。この教会に、この教会に連なる一人一人に、神さまの恵みがあるように、祝福があるように、救いのみわざがあるように、もっともっと祈っていこう。そういう思いが与えられました。
 今日から、大相撲初場所が始まりますが、聖書の中には、神さまと相撲を取った人のことが書かれています。ヤコブという人です。創世記32章23節からの聖書の言葉を後で読んでいただけたらと思いますが、私は、今日のカナンの女性の話から、このヤコブのことを思い起こしました。ヤコブが、何者かと格闘した場面が書かれていて、その何者かというのは、神さまの使いのことでしょうか、ヤコブと夜明けまで格闘した、という話です。その神さまの使いは、もう去らせてほしい、と言ったのですが、ヤコブはこう言うのです。「祝福してくださるまでは離しません」(創世記32章27節)。ヤコブが神さまと相撲を取った、と言いましたが、それは、祈りによる格闘であった、と言われます。どうぞ、神さま、私を祝福してください。この教会を、この教会に連なる一人一人を祝福してください。私もカナンの女性のように、ヤコブのように、祈り続けていきたいと思います。

(むすび)
 願い求める女性に対して、イエスさまはこのように言われました。
15:28 そこで、イエスはお答えになった。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」そのとき、娘の病気はいやされた。
 「あなたの信仰は立派だ」。マルコによる福音書では、「それほど言うなら、よろしい」(マルコ7章29節)となっていますが、口語訳聖書では、「その言葉で、じゅうぶんである」となっています。マタイによる福音書では、イエスさまが、この女性の信仰をほめられたようなニュアンスがありますが、マルコによる福音書では、イエスさまが、この女性の信仰を喜ばれた、満足された、というようなニュアンスがあるように思います。イエスさまは、この異邦人の女性の信仰、神さまの救いを必死で求める心を知られ、喜ばれ、満足され、その信仰に応えられたのです。そして、この出来事がきっかけで、イエスさまの伝道が、神さまの救いがユダヤ人から異邦人へと拡げられていったのではないでしょうか。イエスさまは、この異邦人の女性だけでなく、私たちの信仰、神さまの救いを求める心をも喜んでくださる、満足してくださる方だと私は信じています。祈り求めていきましょう。

祈り
恵み深い私たちの主なる神さま
 イエスさまが、異邦人の地に行った時、一人の異邦人の女性に出会い、その信仰、その求める心を知られ、喜ばれ、満足され、救いのみわざを行われました。主は、私たちの信仰、求める心をも知られる方です。私たちの祈りを喜ばれ、満足される方です。私たち一人一人に神さまの恵みが、祝福があるように、救いのみわざがあるように、どうか、導いてください。
 私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン

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