ARCHIVE

アーカイブ

  1. HOME
  2. ブログ
  3. 説教
  4. 神の後悔 創世記 6章1~22節 2025/02/23

神の後悔 創世記 6章1~22節 2025/02/23

神の後悔 創世記 6章1~22節 2025/02/23 赤塚バプテスト教会(朝・夕)礼拝説教 石堂雅彦牧師

聖書―創世記6章1~22節
(はじめに)
 お読みしました聖書は旧約聖書・創世記6章でした。この6章からは、ノアの物語が書かれています。ノアというのは、ノアの箱舟でよく知られた人です。ノアについては、創世記5章に、その名前の意味が書かれていました。5章29節を読んでみます。
5:29 彼は、「主の呪いを受けた大地で働く我々の手の苦労を、この子は慰めてくれるであろう」と言って、その子をノア(慰め)と名付けた。
 ノアとは、「慰め」という意味だそうです。なぜ、慰めという名前が名付けられたのかというと、ノアの親レメクが「主の呪いを受けた大地で働く我々の手の苦労を、この子は慰めてくれるであろう」という理由からノア、慰めと名付けたということです。ところで、ここに「主の呪い」とありました。主の呪い、神さまの呪いということです。神さまは呪いをおかけになるような、呪われるようなお方なのでしょうか?そのことについて、創世記3章17節をお読みします。
3:17 神はアダムに向かって言われた。「お前は女の声に従い/取って食べるなと命じた木から食べた。お前のゆえに、土は呪われるものとなった。お前は、生涯食べ物を得ようと苦しむ。
 ここには「お前のゆえに、土は呪われるものとなった」とあります。土は呪われるものとなった。今日の聖書個所で言うなら、大地のことです。大地は呪われるものとなった。その理由は「お前のゆえに」とあります。これは神さまが最初の人アダムに向かって言っていることです。アダムのゆえに大地は呪われるものとなった。これはどういうことかというと、アダムが罪を犯したために大地は呪われるものとなった、ということです。そうしますと、主の呪いとありましたが、それは神さまの呪いというよりは、人間は自らの罪のゆえに、呪われるものとなったということ。ここで言われている呪いとは、罪に支配された状態のことを言っているのではないでしょうか。
 それに対して、ノアの父レメクはこのように言っているのです。「主の呪いを受けた大地で働く我々の手の苦労を、この子は慰めてくれるであろう」。罪のゆえに呪いを受けた大地。罪に支配された我々。しかし、そこに慰めがあるように、そういう願いからノア、慰めという名前が名付けられたというのです。

(聖書から)
 さて、創世記6章を見ていきましょう。まず、1~3節をお読みします。
6:1 さて、地上に人が増え始め、娘たちが生まれた。6:2 神の子らは、人の娘たちが美しいのを見て、おのおの選んだ者を妻にした。6:3 主は言われた。「わたしの霊は人の中に永久にとどまるべきではない。人は肉にすぎないのだから。」こうして、人の一生は百二十年となった。
 神の子らが、人の娘たちが美しいのを見て、それぞれ自分の気に入った女性を選んで妻にした、ということです。すると、その後、神さまが「わたしの霊は人の中に永久にとどまるべきではない。人は肉にすぎないのだから」と言われ、人の一生は百二十年となった、ということです。百二十年というと、今でこそ、長寿、長生きと言えますが、創世記5章に出てきた系図を見てみますと、それに比べるとはるかに短い年齢となります。
 これに続いて、4~8節にはこのようなことが書かれています。
6:4 当時もその後も、地上にはネフィリムがいた。これは、神の子らが人の娘たちのところに入って産ませた者であり、大昔の名高い英雄たちであった。
6:5 主は、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのを御覧になって、6:6 地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた。6:7 主は言われた。
「わたしは人を創造したが、これを地上からぬぐい去ろう。人だけでなく、家畜も這うものも空の鳥も。わたしはこれらを造ったことを後悔する。」6:8 しかし、ノアは主の好意を得た。
 神の子らが人の娘をそれぞれ妻とした、とありましたが、そこから、ネフィリムが生まれた、ということです。そして、それに続いて、5節には「主は、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのを御覧になって」という言葉が続いています。
 ここに書かれていることは、何でしょうか。ある方は、この後の9節以下から、ノアの物語が書かれていることから、ここに書かれていることは、洪水前の人間の姿を表していると言っています。神の子らが人の娘に産ませたのが、ネフィリムでした。ネフィリムとは、「大昔の名高い英雄たち」ということですが、ある聖書注解によると、「転落した者」という意味があるということです。名高い英雄たち、彼らは、自分の名声や栄誉を求め、また自分の欲望のままに生きていった。そういう人間の姿が、「地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っている」という言葉で表されているのではないでしょうか。しかし、私たち人間が本当に求めなければならないこと、大切にしなければならないことは何でしょうか?私たちは幸いにも、そのことを聖書から日々、聴いている、知っているはずです。けれども、本当に求めるべきものを求めることをせず、別なものを求めることによって人間の転落、堕落、罪があるのではないでしょうか?
もう一度、5~8節をお読みします。
「主は、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのを御覧になって、地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた。主は言われた。『わたしは人を創造したが、これを地上からぬぐい去ろう。人だけでなく、家畜も這うものも空の鳥も。わたしはこれらを造ったことを後悔する。』しかし、ノアは主の好意を得た」(5~8節)。人間の悪、罪の姿。そのことをご覧になった神さまについて、「地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた」とあります。神さまは「後悔された」、「心を痛められた」というのです。神さまは人を造られ、自由な意思を持った存在とされました。それは神さまの愛と信頼から、そうされたのです。ところが、人は神さまのそのような愛を知らず、信頼の心を知らず、自分の思うままに生き、罪に陥り、悪に走って行った。その時の神さまの心、神さまの思いについて、「後悔された」とあり、また「心を痛められた」というのです。
 ある教会の方が、自分の教会の牧師先生から、神さまと罪のことについて、このようなことを教えていただいた、とお話しされました。それは、神さまという方は閻魔様のようなものではない、というのです。悪いことを言ったら、舌を抜いたり、悪いことをしたら、例えば、盗みをしたら、手を切ったりする。神さまはそんなことはなさらない、罰を与えるようなことはなさらない、というのです。それでは、神さまは私たちの罪の姿をご覧になってどうするのかというと、神さまは私たちが罪を犯したら、大変悲しまれるというのです。今日の聖書の言葉で言うなら、神さまは、心を痛められるということです。しかし、神さまは、そういう私たちをそのままにはなさらない。私たち人間が罪によって滅びてしまわないように、ご自分の大切な独り子であるイエスさまを与えてくださって、私たちの罪のすべてをイエスさまがお受けくださった。それが十字架の救いだというのです。神さまは、私たちに罰を与えるのではなく、イエスさまを与えてくださった。私はその話を聞いて、これこそ福音、これこそ喜びの訪れ、これこそ本当の慰めと思いました。
 ノアについて、8節には、「しかし、ノアは主の好意を得た」とありました。この後の9節には、このようにあります。
6:9 これはノアの物語である。その世代の中で、ノアは神に従う無垢な人であった。ノアは神と共に歩んだ。
 ノアは、神さまに従う無垢な人、神さまと共に歩んだ人だった、というのです。新共同訳は、「無垢な人」と訳していますが、口語訳では、「正しく、かつ全き人」となっていました。正しい人、全き人というのと、無垢な人ではだいぶ違うように思えますが、このことについてある方はこのように説明しています。ここで言われていることは、「神が期待なさることを一つも落とさずに、欠けること無く応答した人」のことだ、というのです。私たち自身は完全な者、正しい者ではありませんが、神さまは、私たちに対して、神さまを信頼して、無垢に、素直に従っていくことを求めておられるのではないでしょうか。
神さまはノアに語られました。13節以下にその内容が書かれていますが、箱舟を造りなさい、ということを命じられました。読んでみてお分かりのように、神さまは、ノアに、箱舟のサイズや箱舟に入れる人たちのこと、動物のことを細かく指示されました。ノアはこれを聞いてどうしたでしょうか。今日お読みしました聖書の最後の言葉、22節には、このようなことが書かれていました。
6:22 ノアは、すべて神が命じられたとおりに果たした。
ノアの箱舟の話というと、絵本で読んだり、アニメでも観たことがあります。ノアはせっせと箱舟作りに励みますが、周りの人たちは何を馬鹿なことをしているのか、とノアのことをからかったりしている様子がありました。そのノアの姿は今、福音を宣べ伝えることに励む教会と重なります。私たちはイエスさまの言葉に従って、福音宣教に励む。家族や友人を主のもとへとお誘いしたり、いろいろなプログラムを企画したりする。けれども、イエスさまを信じる人は年に何人いるかいないか・・・。どれだけ労しても、なかなか結果が出ない・・・。私たちの行なっていることは、世の中の考えからすると、何と無駄なことをしているのか、と一笑に付されてしまうかもしれません。
 ノアは周りの人たちからは馬鹿にされたり、相手にされなかったり、そういう毎日であったかもしれません。でも、「ノアは、すべて神が命じられたとおりに果たした」。神さまの言われることを一つ一つ聴きながら従っていきました。なぜ、ノアは主に従うことができたのでしょうか?ノアという人の生まれ持った素直さや純粋さといったものがそのようにさせたのでしょうか?最初にノアという名前の意味は「慰め」という意味であることをお話しました。ノアは、どこまでも神さまに従いました。それはノアが、神さまから慰めを受けていたからではないでしょうか。神さまの慰めを受けていたからこそ、ノアは神さまの言葉に従い続けられたのではないでしょうか。
 ノアの箱舟作り、私たちの伝道の働き、それは無駄なことのように見えるかもしれません。無駄と言えば、新約聖書の中に「無駄遣い」についての話があります(マタイ26章6~13節、マルコ14章3~9節、ヨハネ12章1~8節)。イエスさまのために高価な香油を使った女性に対して、イエスさまの弟子たちがそれは無駄遣いだ、と非難する話です。この話はマタイ、マルコ、ヨハネの三つの福音書に出てくる話ですが、高価な香油をイエスさまに注ぐこと、それはその女性自身にとっては無駄遣いではありませんでした。なぜなら、彼女はイエスさまから慰めを受けていたからです。その女性にとっては、イエスさまに香油を注いだこと、つまり、イエスさまのために使うこと、それは、決して無駄遣いではない。最も価値あること、最も大切なことだったのです。
 本当にイエスさまに出会ったら、本当にイエスさまの救いを知り、受け取ったら、人は変わるのです。神さまの慰めを知ったノアがどこまでも神さまに従ったように、神さまの慰めを知った女性が高価な香油をイエスさまのために使い果たしてしまったように、人は、その生き方が変わるのです。神さまを宣べ伝えることは大事なことです。それはもちろん神さまが私たちに命じておられることですから従うべきことでしょう。しかし、まず私たちは、神さまの慰めを自分に与えられた慰めとして受け取っているか?自分が神さまに愛され、救われていることを本当に喜びとしているか?福音を宣べ伝える者自身がまず、知るべきことはこのことです。神さまの慰め、救いを喜び、感謝する。そこから私たちの信仰の歩み、神さまに対する信頼の歩みが始まるのです。

(むすび)
 ノアの記事はこの後も続きます。繰り返しますが、ノアとは慰めという意味です。罪のために土は呪われた、大地は呪われた。罪は私たちを、そして、私たちの生きる大地、世の中を支配し、死へと、滅びへと誘います。しかし、ノアに、そして、私たちに、神さまが与えてくださった慰め、それは私たちを罪から救います、罪による死、滅びから救います。この神さまの救いこそが私たちの本当の慰めです。この救いを、この慰めを人々に宣べ伝えていきましょう。

祈り
恵み深い私たちの主なる神さま
 神さまは私たちに本当の慰めを与えてくださいました。私たちを、罪から救い出し、神さまの愛に生きるために、ご自分の大切なみ子イエス・キリストをお送りくださいました。
 ノアは、神さまの愛を信頼して、箱舟を造ることに励みました。私たちも神さまの愛を信頼して、教会を建て上げることに励む者にしてください。
 私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン

  • コメント ( 0 )

  • トラックバックは利用できません。

  1. この記事へのコメントはありません。

関連記事

記事一覧
アーカイブ
月を選択