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三つの祈り (ルカによる福音書11章1~13節、18章1~14節 スティーブン・クンケル宣教師

三つの祈り ルカによる福音書11章1~13節、18章1~14節 赤塚バプテスト教会(朝)礼拝説教 スティーヴン・クンケル宣教師

これからお話しします説教から、教会の皆さんにぜひお伝えしたいことがあります。特に、神さまのみ言葉に生きる人たちにとって大事なことをお伝えしたいと思います。それは「祈り」ということです。霊的闘いで大事なことはあらゆる点において祈ることです。でも、お伝えしたいことは、どのように祈ったらよいのか、ということです。もちろん、祈りはとても大切なことです。
私たちはキリストの人生に倣っていきたいと願います。イエスさまの弟子たちもそうでした。ある時、弟子たちは、イエスさまにこのように尋ねました。「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えてください」(ルカ11:1)。これはとても良い質問です。なぜかというと、弟子たちはイエスさまの教えに従いたいというだけでなく、イエスさまの祈りの生活からも学びたいと願っていたからです。
イエスさまが弟子たちに祈りについて答えたこと、それは、「主の祈り」と言われるものでした。
「父よ 皆が聖とされますように。御国が来ますように。私たちに日ごとの糧を毎日お与えください。私たちの罪をお赦しください。私たちも自分に負い目のある人を皆赦しますから。私たちを試みに遭わせないでください。」(ルカ11:2~4)
「主の祈り」から、イエスさまは、何を祈るべきか、教えてくださいました。そして、次に、イエスさまが祈りについて教えてくださった三つのことをお話します。
その三つのことを知る前に、祈りについて大切なポイントがあります。それは、祈りは力のある武器であるということです。祈ることはあらゆる時に必要な武器なのです(エフェソ6:18、1テサロニケ5:17)。
それでは、イエスさまの言葉から、三つの祈りを紹介していきます。
最初の祈りは持続する祈りです。つまり、私たちは、神さまに願い続けていくのです。あきらめないで、祈り続けていくのです。私たちは神さまの約束に信頼して祈り続けなければならないのです。このことについて、二つの祈りの譬え話があります。一つは真夜中の友達の譬え話、もう一つは不正な裁判官の譬え話です。
ではこれから、その二つの譬え話の一つのストーリーを読ませていただきます。
(ルカ11:5−8をお読みします。)
皆さん、この譬え話のことをどう思いますか。簡単ですね!ある人が遊びに来た友達のために真夜中に出て、別の友達の家に行ってパンを三つ貸してくれるように願いました。けれども、その友達はもう真夜中で何もできないと断りました。しかし、この人は、あきらめずに戸を叩き続けました。するとその人はついに必要なものを渡してくれたのです。
もちろん、このような話を読んだら、こんなことは、非常識でおかしい、と思うかもしれませんし、今の時代には考えられないことかもしれません。しかし、イエスさまは、この譬え話から、神さまに祈り求めるというのは、これほどまでに求め続けることなのだ、と教えられたのです。
「そこで、私は言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。叩きなさい。そうすれば、開かれる。誰でも求める者は受け、探す者は見つけ、叩く者には開かれる。あなたがたの中に、魚を欲しがる子どもに、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子どもには良い物を与えることを知っている。まして天の父は、求める者に聖霊を与えてくださる。」(ルカ11:9~13)
私たちと神さまの関係、それは、神さまは私たちの父親であり、私たちは神さまの子どもです。お読みした聖書の言葉にあるように、神さまは、自分の子どもである私たちに、良い物を与えてくださるのです。だから、私たちはあきらめないで、祈っていくのです。神さまは私たちに最も良い物を与えてくださいます。
次の譬え話をお読みします。やもめと裁判官の譬え話です。
(ルカ18:1~8)
この譬え話は先ほどの譬え話と同じようなメッセージがあります。あきらめずに祈り続けるというメッセージです。裁判官は人を人とも思わない、不正な裁判官でした。やもめが自分のために裁判を行ってほしい、と何度も願ったのに、裁判官は、その願いを無視しました。しかし、やもめがあきらめずに願い続けた結果、裁判官はそのしつこさに疲れ果ててしまい、裁判を行うことにしました。このように、不正な裁判官でさえ、やもめの粘り強い願いを聞いたのですから、不正ではなく、正しい方である神さまは必ずや私たちの祈りに対して応えてくださいます。だから、神さまの約束を待ち望みながら、祈り続けていきましょう。
次にお話しする祈りについての譬え話は、ファリサイ派の人と徴税人の祈りです。(ルカ18:9~14)
まず、この譬え話のファリサイ派の人の祈りですが、これは、自分を誇る祈りです。神さまが自分に与えてくださった恵みを感謝するのではなく、自分が、他の人たちとは違い、善い行いをした善い人間であり、罪人ではないと自分を誇っているのです。もちろん、このような祈りを神さまは喜ばれるはずはありません。聖書の言葉の中には、ファリサイ派の人が、自分を誇り、高ぶっている場面が出てきます。そこでイエスさまは、そういう人たちに対して、警告されました。マタイ6:5がこう書いてあります。「また、祈るときは、偽善者のようであってはならない。彼らは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈ることを好む。よく言っておく。彼らはその報いをすでに受けている。」
イエスさまは、ファリサイ派の人が善い行いを行っても、その目的が、人に見られるため、人に誇るためであったことをご存じで、彼らに対して、「偽善者」と厳しく語られたのです。
さて、次に徴税人の祈りを読みましょう。その祈りはへりくだった祈りです。徴税人はファリサイ派の人とは違い、神さまに目を向けることもできず、自分の胸を叩いて、自分の罪を悔い改める祈りをしたのです。神さまの前に、自分の罪を認め、罪が赦されるように祈ったのです。(すべての人間は罪人です。どんなに善い行いをしても、神さまの前には、誰も自分を誇ることはできないのです。私たちは、イエスさまの十字架の赦しによって罪から救われた者なのです。自分を誇るのではなく、ただ神さまの救いを感謝するだけです。)
「言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。誰でも、高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」(ルカ18:14)
皆さん、これで祈りについての説教を終わりますが、最後に一つ、お話したいことがあります。祈りは皆さんにとって、どんな意味がありますか?何の目的がありますか?霊的闘いのために、互いに祈り合うことは必要ですが、それだけでなく、祈りは、力強い武器なのです。あきらめずに祈り続けることをパウロ先生は教えてくださいました。あきらめずに祈り続けることによってあらゆる悪から避けることができます。そして、決して忘れてはならないことは、神さまは、私たちの祈りをかえりみてくださるということです。
祈りについては、いろいろな祈りの方法があります。例えば、プレーヤーウォークという祈りの方法です。これは、ある地域を歩きながら、そこに住む人たちの救いを祈ることです。
祈りによって、神さまはエリヤの雨のための祈りをかなえられました。また、祈りによって、神さまはペトロを自由にされました。そして、祈りによって、イエスさまは弟子たちを選ばれました。祈りによって、何でもできます。ヘブライ人の手紙の著者はこのように語っています。(ヘブライ11:6)。キリストを信頼して祈り続けましょう。

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