神の恵みを受け取って生きる(マタイ20章1~16節) 【週報巻頭言】2025年10月26日
イエスさまのたとえ話にこのような言葉がありました。「自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか」(マタイ20章15節)。ここには、「妬み」ということが言われていましたが、すぐに妬んでしまう。人と自分を比べて妬んでしまう。ある方はこう言いました。「自分が試練に遭った時は同情してくれる人はいるけれど、嬉しいことがあった時に一緒に喜んでくれる人はあまりいない」。他人の喜びを喜びとできないというのです。ローマの信徒への手紙12章15節に「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」という言葉がありますが、ある方は「泣く人と共に泣くことよりも、喜ぶ人と共に喜ぶ、このことの方が難しい」と言いました。そして、「他人の喜びを喜びとできないでいる、そういう自分自身に問題を感じる」とも言われました。私は、その方が、真摯な態度で神さまの前に立ち、神さまの光に自分を照らしておられる姿に大変敬服しました。ところで、この聖書の言葉に出てくる「妬む」という言葉は、直訳的には「目が悪くなっている」(マタイ6章23節参照)という意味です。心の目が悪くなっている、見えなくなっている。それは神さまの恵みを見失っているということです。その時、私たちは、自分が神さまの恵みをいただいていることを忘れていますから、分からなくなっていますから、他人を妬んでしまうのです。
神さまの恵みを恵みとして受け取っていく。このことも難しいことだと思います。私たちは、神さまの恵みを恵みとして受け取ることをしないで、すべては自分の力で得たもの、報酬と考えてしまうようなことはないでしょうか。「後にいる者が先になり、先にいる者が後になる」(16節)とありました。主が言われた「後にいる者」とは、「この最後の者」(14節)のことです。ところが、自分の力で生きていると思う時、自分が「後にいる者」、「この最後の者」であることを忘れてしまうのです。神さまの恵みを、恵みとして受け取っていく時、そこには、神さまに対する感謝、喜びがあります。しかし、神さまの恵みを、報酬と考えると、そこには、誇りとか妬みが起こってきます。自分が神さまの恵みによって生かされていることをおぼえるところから、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい」(一テサロニケ5章16~18節)。このみ言葉が私たちの中で実現していくのです。私は「この最後の者」、「後にいる者」、ただただ神さまの恵みによって愛され、生かされている者、そのことをおぼえて歩んでまいりましょう。
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