「見えるようになること」マタイによる福音書20章29~34節 2025年11月2日
(はじめに)
イエスさまを信じるとはどういうことでしょうか?イエスさまという方が、本当の神さまで、救い主であることを知っている。それだけでは、イエスさまを信じるとは言えません。イエスさまを信じるとは、イエスさまを、私の神さま、救い主として信頼するということです。私たちには、信頼できる人はいるでしょうか?「私は、この人の言うことは信頼できる」。信頼できる人の言葉なら、私たちは真剣に聴きます。その人が何かアドバイスをしたなら、それに従ってみよう、と考えます。イエスさまを信じるとは、イエスさまを信頼するということであり、イエスさまの言うことに従うということです。
イエスさまに従う。今日の聖書の中に、そのことが書かれていました。マタイによる福音書20章29節の言葉をお読みします。
20:29 一行がエリコの町を出ると、大勢の群衆がイエスに従った。
ここに、「イエスに従った」という言葉が出てきます。それも、大勢の群衆がイエスさまに従った、というのです。
(聖書から)
「一行がエリコの町を出ると」という言葉から、今日の聖書の話は始まります。イエスさまとその弟子たちがエリコの町を出ると、その後に大勢の群衆が従った、付いて来たのです。そして、30節には、このようなことが書かれていました。
20:30 そのとき、二人の盲人が道端に座っていたが、イエスがお通りと聞いて、「主よ、ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と叫んだ。
二人の目の見えない人たちが道端に座っていたということです。彼らは、イエスさまが通られたことを聞いて、こう叫びました。「主よ、ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」。彼らは、イエスさまがどんな方であるか、人々から聞いていたのでしょう。「主よ、ダビデの子よ」と叫んだ、ということですから、イエスさまのことを、救い主、ダビデの子、そのように聞いて、そういう方だと信じていたのでしょう。
旧約聖書・イザヤ書35章5節に、このような言葉が書かれています。
35:5 そのとき、見えない人の目が開き/聞こえない人の耳が開く。
新共同訳聖書の小見出しには、この聖書個所について、「栄光の回復」と書かれています。ユダヤの人たちは、救いの訪れを待ち望んでいました。イエスさまは、救い主、ダビデの子であるなら、私たちの目を開いてくださる、と信じて、「わたしたちを憐れんでください」と願い、叫んだのでしょう。
ところが、二人の目の見えない人たちの叫びを遮ろうとする人たちがいました。31節です。
20:31 群衆は叱りつけて黙らせようとしたが、二人はますます、「主よ、ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と叫んだ。
二人が叫んでいるのを黙らせようとした人たちとは、群衆のことでした。群衆については、29節にこのように書かれていました。「大勢の群衆がイエスに従った」。彼らは、イエスさまに従った人たちでした。イエスさまに従う人たちが、イエスさまに願い求める人たちを黙らせようとした、遮ろうとした、というのです。
これとよく似た場面は、今日お読みした聖書個所の少し前にもありました。マタイによる福音書19章13節です。
19:13 そのとき、イエスに手を置いて祈っていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。
イエスさまに祈っていただきたい、イエスさまに祝福していただきたい、と子供たちを連れて来た人々を弟子たち、これはもちろん、イエスさまの弟子たちです。彼らが叱った、というのです。すると、イエスさまは、このように言われました。「子供たちを来させなさい。わたしのところに来るのを妨げてはならない。天の国はこのような者たちのものである」(19章14節)。
イエスさまのところに来ることを妨げてはならないのです。私は、この言葉を読むと、いつも心が痛くなります。もしかすると、私が、人々がイエスさまのところに来る妨げになっていないだろうか?おそらく、この時のイエスさまの弟子たち、そして、今日の聖書個所に出てきた群衆は、自分が妨げになると思っていなかったと思います。自分では気づいていない。それをイエスさまが気づかせてくださったのです。これはとても大事なことです。自分では、良いと思って言ったこと、行なったことが、イエスさまの目から見るとそうではなかった、ということがあるのです。だから、自分の見えるところで、自分の考え、思いだけで、言わないように、行なわないようにすることです。神さまの目にはどうですか?といつも神さまに祈り、尋ねることです。
二人の目の見えない人たちは、群衆に叱りつけられ、黙らされそうになりました。しかし、彼らの主を求める思いは動きませんでした。ですから、このようなことが書かれています。「二人はますます、『主よ、ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください』と叫んだ」。私は、この「二人はますます・・・叫んだ」という言葉に励まされます。
私たちがイエスさまのことを人々に宣べ伝えたいと思っても、時に、私たちのまわりの人たちからは、厳しい目を向けられることがあります。批判されたり、反対されたりする。すると、がっかりしてしまう。しかし、この二人の目の見えない人たちは、叱りつけられ、黙らされそうになっても、ますます、主を求めたのです。なぜでしょうか?彼らは、見えなかった。いや、見なかったのです。群衆のことは見なかったのです。彼らは、イエスさまの方を見ていた。彼らの心の目は、イエスさまの方を向いていた、イエスさまを見ていたのです。本当に求めていたら、あの人がどうだ、この人がどうだ、ということが気にならなくなるのです。イエスさま!私たちの方を向いてください!そのことで頭がいっぱい、心がいっぱいだったのです。そういう彼らのことに気づかれたイエスさまは、こう言われました。32節をお読みします。
20:32 イエスは立ち止まり、二人を呼んで、「何をしてほしいのか」と言われた。
ここに、「イエスは立ち止まり」とあります。イエスさまは、通り過ぎて行かなかったのです。彼らの求める心が、イエスさまを立ち止まらせたのです。そして、イエスさまは、二人を呼んで、こう言われました。「何をしてほしいのか」。イエスさまは、二人が、何をしてほしいのか、ご存じであったと思います。でも、ここで改めて尋ねられたのです。「何をしてほしいのか」。イエスさまは、彼らにその心の願いを言葉にして表すことを求められました。
これと似た場面が、この聖書個所の少し前にあります。イエスさまが、ゼベダイの息子たち、それはイエスさまの弟子のヤコブとヨハネですが、その母親にこのように尋ねておられます(20~22節前半)。
20:20 そのとき、ゼベダイの息子たちの母が、その二人の息子と一緒にイエスのところに来て、ひれ伏し、何かを願おうとした。20:21 イエスが、「何が望みか」と言われると、彼女は言った。「王座にお着きになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっしゃってください。」20:22 イエスはお答えになった。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。」
ここでイエスさまは、ゼベダイの息子たちの母親に、「何が望みか」とお尋ねになりました。すると、母が答えます。それに対して、主は、「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない」と言われました。
イエスさまは、「何が望みか」とお尋ねになりました。彼らの願っていることが本当に願うべきことであるのか、そのことを口に出すことによって、つまり、神さまの前に立つことによって気づかされるのです。二人の目に見えない人たちに対しても、主は「何をしてほしいのか」とお尋ねになりました。彼らは、自分たちの願いを主の前に口に出しました。
20:33 二人は、「主よ、目を開けていただきたいのです」と言った。
「主よ、目を開けていただきたいのです」と彼らは言いました。彼らは、ダビデの子、救い主は、私たちの目を開けてくださる。そのように信じていたのです。
(むすび)
イエスさまは、彼らの願いを聞かれました。そして、どうされたのでしょうか?
20:34 イエスが深く憐れんで、その目に触れられると、盲人たちはすぐ見えるようになり、イエスに従った。
イエスさまは、彼らを深く憐れんだ、ということです。二人の目が見えない、その苦しみを知られたのです。そして、彼らの目に触れました。すると、二人はすぐに見えるようになった、ということです。しかし、見えるようになった、というところでこの話は終わっていません。「盲人たちはすぐ見えるようになり、イエスに従った」と書かれています。彼らは見えるようになっただけではありません。イエスさまに従った、というのです。これは、どういうことでしょうか?彼らの肉体的な目が見えるようになった、というだけでなく、信仰の目が開かれた、ということが示されているのではないでしょうか。二人は、信仰の目が開かれ、イエスさまを信頼し、イエスさまに従う者とされたのです。
私たちも心にいろいろな願いを抱いていると思います。そういう私たちにも、主は、「何をしてほしいのか」と問われていると思います。もしかすると、こんなことを願ったら、イエスさまに、「それが本当に願うべきことなのか?」と厳しく叱咤されるかもしれない、と思い、口に出しづらいかもしれません。しかし、何でも主に願ってみてもいいと思うのです。もしも、主から、「それが本当に願うべきことなのか?」と問われたなら、私たちは、そこで方向転換するのです。大切なことは、主に従うことです。「それが本当に願うべきことなのか?」と問われることは大事なことです。そのことによって、私たちは自分では気づかなかったことに気づかせていただけるからです。私たちの目が、信仰の目が開かれるからです。自分に向いていた生き方から、神さまの方を向いていく生き方へと変えられるからです。主が、私たちの目を開いてくださり、主に従う者にしてくださいます。私たちも主のもとに行きましょう。お祈りいたします。
祈り
恵み深い私たちの主なる神さま
「何をしてほしいのか」と主は、今、私たちに問われます。私たちの心にあるものが主の前に明らかにされます。主は、そういう私たちの目を開いてくださいます。信仰の目を開いてくださいます。そして、私たちを主に従う者へと導いてくださいます。主を信頼し、主の言葉に聴き従う歩みをさせてください。
私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン
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